カナダのオンタリオ州で一戸建ての家を借り始めた頃に買った車で、振り返ってみると色んな想い出が詰まってる。
ErikaをKitchenerの病院で出産した際に、Davidが運転して、新生児の彼女と私を迎えに来てくれたのもこのクルマだったし、私は時々、後部座席のチャイルドシートに子供たちを乗せて、Davidを仕事まで送り迎えもしたり。
ErikaをKitchenerの病院で出産した際に、Davidが運転して、新生児の彼女と私を迎えに来てくれたのもこのクルマだったし、私は時々、後部座席のチャイルドシートに子供たちを乗せて、Davidを仕事まで送り迎えもしたり。
日中には当時、就学前のKaitoとErikaの二人を乗せて、あちこちの公園へ出掛けてピクニックランチをしたり、YMCAのプレイグループに参加して他所の子供たちと一緒に遊ばせたり。そんな帰り道にはいつも決まって、車の後部座席で頭を寄せ合って二人とも気持ち良さそうに寝入ってしまったり。
"Easter"や夏休みや"Thanksgiving"や"Christmas"のホリデーには、600km離れたMontrealまでDavidの両親を訪ねる長距離でのドライヴをして、途中、HWY401にある巨大なりんごが目印のレストラン『Big Apple』に寄って、小動物に餌をあげたり、野うさぎを追いかけたり、お昼を食べた後にお土産用のアップルパイを買ったり、、、ってのがほとんど"Tradition"みたいになってたあの頃。
車って、単に移動の為の手段であり機械ではあるんだけど、でも、生活に欠かせない分、思ってる以上に生活に入り込んでいて、ある意味、日常的な日々の目撃者(クルマだけど!)的な存在感だったりするから不思議。
思い出に刻み込まれてる、って程ではないにしろ、でも、いつも何処へ行くにも(私たちと一緒に)「そこにいた」みたいな。そんな存在感で。
だから私が十代の頃、私の両親が長年愛用した「日産サニー」号を手放した際には、その車に乗って行った場所や人々との思い出の全てが遠くに行ってしまう気がして、特にその車と一緒の思い出には、生前での、大好きだった祖父母との記憶も沢山あり、とにかく哀しくて淋しくて、二晩くらいは泣いたんじゃないかな?って、今でも覚えてる。
ひょっとして、子供たちもそんな風に感じてるかも?と思ってKaitoとErikaに「ほら、私たちの古い車を見る最後のチャンスだから、見届けたい?最後に見送ったら?」とか声を掛けたンだけど。
やっぱり北米人にとって、車はクルマでしか無いらしい。。。
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