2016年1月31日日曜日

海底プロジェクト

週末は特に、何の罪悪感もなしに作業に没頭する事が出来るので天国。

何だかんだ言って平日はやっぱり、それなりにこなさなければならない家事もあったりするし、当然だけど。 

ま、最近はちょっとサボり気味ではあるケド、ってのは内緒で。

でも日中、TVは一切見ないし、ネット中毒でサーフィンに没頭してるって訳でもないから、家に籠って独りでチクチクしてるくらいは、そうそう害もなく、外でお金を浪費する事もないし、何の役にも立たないモノとは言え、何かしら創り出すという行為ではまぁ一応、プロダクティブ(生産性のある)な時間を過ごしてるから許して、って感じ。

何の文句も言わず、私に好きな事を自由にさせてくれる Davidは凄いなと思う。

私が逆の立場ならきっと家の中の事に細かくネチネチと文句を言うと思うもん。

ま、そういう確信がある自分ってのも凄いなー、嫌な人間だなーとは思うケド。




今週末は「海底」を制作中。

少し前から編んでる「人魚」たちの為のステージとして、作品展に出す為のジオラマ作りのほとんど全てを毛糸を編んだり、かぎ針で編んで仕上げる予定で。

まずは背景の海中を編む作業から。


濃淡の違うブルー、、、群青色とか藍色とか紺碧とかターコイズとか、合間にちょっと緑色系、紫色系も編み込んで、本当に楽しい作業。

雰囲気を見るために人魚たちを配して、うん、いい感じ♪と納得して編み続けたり、仕上がりを楽しみに予想しながらの作業は本当に気分が盛り上がって幸せ。


気分が盛り上がって幸せな作業の時には、自分の中にいいエネルギーが湧き上がるような錯覚があって、高揚したハイな気分で凄くいい感じ。

そんな時には次々と色んなアイデアが止めどなく押し寄せる。

そうだ! 背景には小さなガラスの魚たちを泳がせよう♪とか。


そうだ! 海の底の岩場には貝殻を配置しよう♪とか。


そして、海の生物にはカラフルな色彩でヒラヒラとしたものを作ろう♪とか。


色々と思い付く度に、割りとどんな素材や材料も既に持っていて、ササっと直ぐに取り出せたりする自分が凄く幸せだったりして更にハイな気分。

海中の生物って、本当に不思議なカタチをしていたり、びっくりするくらいショッキングな程に鮮やかな色合いだったり、改めて自然が造り出すデザインの神秘に感嘆させられる。


なので、そんな神秘的に不思議で綺麗な存在を、自分の手で創り出すことの楽しさと言ったらハンパない。


この上なく美味しいものを味わった瞬間に感じる絶頂感を "Foodgasm/フードガズム"とか、"orgasm"をもじって言ったりする訳だけど、私が綺麗な素材に囲まれて夢中で作業してる際に感じる快楽は、まさに "Colorgasm/カラーガズム"だと思う。



覚え書きとして:

この間、多分、新聞だったかと思うんだけど、印刷されてるのを見掛けてひどく納得した引用の一節があって、残念ながら、保管せずにうっかりリサイクルに入れてしまったらしく見つからないんだけど。

多分、何かしらファイバーに関連してクリエイティブな職種か作家の言葉だったかと思うんだけど。

Something I hear, I forget.

Something I see, I remember.

Something I touch, I understand.

というもの。

一般に、

人が耳で聞く事は、意外と忘れ易く、いずれ、すっかり忘れてしまう。

それよりは、視覚に入るもの、目で見る事は、割りと記憶に残る。

そして、手に触れて感触として認知することは、即ち、文字通り「理解する」と言うことに他ならない、、、と、そんな感じの内容なんだけど。

とても、とても説得力があって、特にウール素材を愛するファイバー・アーティスト(自分的には「あーちすと」だけど)の私にとって、心地良いインパクトをもって胸に響き、深く印象に残った。




余談で、前回テキスタイル・センターに行った際、「海の底のジオラマ」プロジェクトの計画を話したら、図書館員のナンシーさんが早速、関連の本を幾つか選んで持って来て見せてくれた。

「借りてく?」

ってので、熱意に押されて「は、はい」と貸出し申請して家に持ち帰った。


本当に環境とか人々とか、とても協力的で素晴らしいンですけど。

何だかまるで私の背後で、チアリーダーの皆さんが並んで応援してくれてるような。

お陰さまでやる気満々。



2016年1月29日金曜日

Starry Night: My Version


ラグ・フッキングには点描画と同様の要素があり、私にとっては油絵を描くのと同じような表現手段だと感じてる。

なので、古くからの伝統的なフォークアートとして北米に根付いている、床に敷く為のラグをフッキングするカテゴリーには収まらないような。

そういう意味では、プリミティブなラグ・フッキングを愛好する人々の会に参加する際、ちょっとした違和感と言うか、なんか浮いてる?ワタシ?みたいに、多少の心地悪さを感じる事があったりするのも事実。

だって他人と同じ事したくないし、型にハマりたくないし。

それでいて平和主義の小心者だったりするから微妙なアンバランスで。

エキセントリックな芸術家みたいな存在感に憧れつつも、どこか謙虚で自分自身を前面に押し出すだけの十分な自信が無い。

かと思えば時には自信満々だったり。

繊細過ぎて、小さな事に傷付いて打ちのめされたり、落ち込んで打ち拉がれてみたり、それまでの全ての自信を失ったり。

この歳になってさえ未だ、自分自身というものを確立してない。

自分はいったい何処を目指して何になりたいと思ってるのか?途方に暮れる。

それでも、この間たまたまテクスタイル・センターでのステファニーさんとの会話で、彼女が彼女の母親について話してくれたんだけど、この周辺では名を馳せた画家だったら彼女が、本格的に絵画の道に進んで有名になって絵が売れるようになったのは、実に彼女が70代に入ってからの事だった、と言うのを聞いて驚いてしまった。

それまでは普通に主婦であり母親業をしてたらしいから、特に絵が売れなくて苦労してた時期が長くあったと言う訳では決してないみたいだし。

何の道でも世界でもそうなのかと思うんだけど、物事が上手く運ぶような時期とか縁とかってのはあるんだろう。

目には見えない力によって運ばれて行くような、全ての条件が奇しくも揃うような、まるで時計仕掛けの細工の歯車とか、銀行の金庫の鍵がピッタリと揃い合ってカチっと開く瞬間みたいな、幸運なタイミング、みたいなものは存在すると思う。

まぁ私自身、明確な目標がある訳ではないけれど、取り敢えず大好きな針仕事に没頭し、継続しながら、いずれ近い将来に何かしら自分で自分自身に納得することが出来るようなカタチとしての結果が欲しいとは思う。

自分がこの世界に生きた証みたいに、何かしら誇れる足跡と言うか。

Crafterで終わることなく、Artistを目指したいとは引き続き意識しながら。

まぁ日本語だと「手芸家」の響きも決して悪くないとは思うけれど。

「芸術家」だと、何だか大層で堅苦しい響き、私的には。

外来語で「アーティスト」なら意味は同じでも軽いノリなのが面白い。

私はカタカナな響きで「アーチスト」を目指すのがいいかな。

ちょっとオツムが軽くてサイケでポップな気がするから。

いずれにしろ、カナダで最後に住んでた家は可愛くて機能的ではあったけれど、とてもこじんまりとしていて空間に限度があったので、私の作業スペースも当然、限られていて。

事務的な作業をする机は、ダイニングルームの隅に置かれ、食事をする場所と兼用って感じで、大きな食卓は作業するのに最適ではあったけれど、使うことが出来るのは食事の合間だけであって、食事の時間にはすっかり綺麗に片付けないとイケナイ。

それを考えると、あれこれと食卓の上に引っ張り出して作業する行為自体が何となく億劫になってしまい、よっぽど気が向かない限りは作業をしない、みたいな。

今、振り返って見ると、ラグ・フッキングを継続してはいたけれど、あの頃、実際にフッキングしていたのは週に一度だけとか、ほんの1時間程度とか、本当に細切れな時間での作業だったから、一つの作品を仕上げるのにも多くの時間を要した。

あの頃と比べて見ると、今は本当に夢のような環境。

全ての材料や道具が常に手の届く場所に出されたまま。

素材や色やデザインに「囲まれてる」って状態は大切だと感じる。

自分が大好きなモノたち(この場合、ウールとか毛糸とか生地やボタンなど)が洪水のように氾濫する "Chaotic/ケオティック"(日本語だと「カオス」)な環境に身を置くことで、絶え間なく触発されて色んなアイデアが湧き出すって感じは、ある意味、ちょっとハイな状態にあるような?

とにかく、とてもいい感じ。






大好きなゴッホの「Starry Night」をウールで表現。


縁取りは着物の帯に使われる素材を端切れで持ってたのを使用。


照明の光によって色合いや質感がかなり違って見える。


大抵いつもフリーハンドで、きちんと下絵を仕上げないので、
最後に背景の下布のスペースが足りなくなってしまった。

なので、幾つかの「星」が収まらず。

ま、そんなもんです。

その辺が私自身の中での「アーティスト」と「アーチスト」との違いで、
私がアーチストである所以、みたいな。




2016年1月24日日曜日

日曜の徒然

取り立ててコレと言った事もなく気がついて見れば既に日曜日も終わりに近く。

日本だったら『サザエさん』を観て、翌日の月曜を想い切なくなってしまう頃。

有り難いことに我が家は今夜、近所のレストラン『Kyoto』へ出向き、寿司をはじめとした何やら怪し気な「和風」メニューの中から食べ放題の夕食を楽しむ予定。

時々、無性に食べたくなる寿司の存在は、やっぱり自分が日本人だからなのかどうか、それとも体が何かしら「酢」のものを欲しているのかどうか。

体とか潜在的な体の維持システムが、体内で欠如している栄養素を含む食べ物を何気なく暗示して欲するような気もするから、そんなサインが出た際には、取り敢えず抵抗せず、食べてみて、欲求を満たしてみるって感じの傾向。

そんな流れで、金曜日はギフトショップにてのヴォランティアの後、カラダが欲するままマクドナルドへ直行、クリスピーチキン・ラップと共にフレンチフライ(←これが主な目的)とアップルパイも買って、ちょっと遅めの独りランチに。

うちの子供たちは、小学校の授業(カナダ)で徹底的に「マクドナルドの真実」的な教育を頭に叩き込まれて以来、その手の食べ物には一切、手を出さないようになってしまって、ソレ自体はまぁ健康志向という目で見れば決して悪いことではないけれど、影響として見ると、ちょっとした「洗脳」とも言えなくもない部分では怖い気もする。

特にワタシが独りでこっそりと食べた昼食の包装紙なんかをゴミ箱の中に無造作に捨てたのを子供たちのどちらかに見つかったりなんかすると、「マック行ったの?」「へぇ〜、マック行ったんだ」「未だにこんなカラダに悪いもの食べてるの?」みたいな感じに、あからさまに嫌な目で見られたりするから、妙に肩身の狭い思いをしつつ、マックのポテトを食べるのも容易でないわ、、、と溜め息を付きながら、いい年して可哀想なオバさんの悲哀モードに浸ってみたり。ふぅ〜。

もうこの先、何十年も生きる訳じゃないんだから、好きなモノ好きなだけ食べさせてよ〜ってな立ち位置の自分。

まぁ先の事は解らないけれど、1月は実家の両親の誕生日が揃ってあり、80歳を過ぎてもそれなりに揃って元気にしてるらしいのは本当に幸運。

とは言え、耳が年相応に悪くなって来たり、頭もそれなりにボケて来てたり(!)という現実もあって、たまに電話を掛けても話が遠かったりするのは辛い。

そもそも、例え耳が悪くなくても、頭が冴えていたとしても、日本を離れて異国の文化にどっぷりと染まってる私とは既に人生に対する価値観も大幅に違うし、置かれた環境が違い過ぎて共通の話題として会話になるのはお天気の話くらいかも。

あとは健康状態の話で、主に体の痛みのある場所や具合、あとは遠縁の誰かしらが亡くなった後の追加での情報とか。

なので2016年の現代に生かされてる恩恵を利用して「花キューピット」(Cupid/キューピッ「ド」でないのが特徴)で実家にお花を届けて貰うんだけど、インターネットとクレジットカードで色んな事が可能なのは素晴らしいと思う。

うちの子供たちが今の私の年代になる頃には、果たしてどんなテクノロジーの世界になってるんだろう?想像もつかないけれど。

そんな子供たちとは、楽しく仲良しの時もあれば衝突して険悪な時もあり、特に女の子は母親である私と同様、オンナならではのホルモンに翻弄される気分とか複雑な事もあって、だから思春期の十代の女の子との生活は大変。

「育児は育自である」とか言われるけれど、育児はまさに修行だな、と思う。

特に自己中心快楽主義みたいな私にとっては。

私の十代の頃を、母も苦労したんだろうなってのがようやく解る。


*Trixieは単純にハッピーでいいなぁ〜♪*



2016年1月18日月曜日

Mermaid Sisters: Knitted+Hooked

今日は月曜日なのだけど「Martin Luther King Jr. Day」の祝日でお休み。

アメリカならではの祝祭日には未だもって不慣れで馴染みが薄い感じ。

なので3連休の週末でも、Davidは昨日の夕方まで気付かず、月曜の朝には普段通り仕事に出掛けるつもりだったらしい。

休みなのを知って「え?なんで???」って驚いた後は大喜びでジャンプしてた。

うちの家族の中で一番下の子供って感じで、アタシゃシングルマザーか、みたいな。

とても寒い週末で連日−25℃前後。

全然アクティブじゃない家族だから外出の予定もないし助かる。

Erikaがギフトショップのヴォランティアと、Davidがポーカーに出掛けた程度。





私は編物での人魚作りが楽しかったから、フッキングでも作って見た。

*ラグ・フッキングの手法で作った人魚(手前)*


編物でのデザインの単純さをそのまま活かして。


何故か人魚のテーマにハマってるっぽい最近で、海の中の風景を想像しながら色んな生物を作ることを考えるのは凄く楽しい。

ヒトデとかタコとか、珊瑚礁や海藻とかも編んで見る予定で。




2016年1月14日木曜日

クリスマス劇場と人魚

編物本を頼りに、北米ならではの編物記号の勉強と、自分にとっての編物そのものの復習を兼ねた練習する目的で、「The 12 Days of Christmas」の数え歌に登場するキャラクターたちを編み上げた。

本来は "free spirit"、"free form"、そして "fearless"を自分自身へのモットーとして、型にはまることなく自由自在に独自の手法やデザインでの物作りを楽しみたいと思ってるから、ここからが応用編。

作品展で発表するカタチとしては、「劇場版」に仕上げたプレゼンテーションにする計画で作業中なのではあるけれど。

"Partridge/パートリッジ(ヤマウズラ)"は歌詞の中で♪A partridge in a Pear Tree♪と歌われ、この鳥にとって「梨の木」の存在は必須であり、切っても切れない関係の止まり木でありながら、でも、私が見本にした編物本の中には「木」の部分の編み方は無く、「付録」として厚紙にプリントされたものを2枚組み合わせて立体の3Dとして立たせることが出来るものが裏表紙のポケットに入ってた。

私独自の劇場版には、場面を全て、編んだ大道具+小道具で演出したいので、ステージに収まる寸法での梨の木を創作。


木の部分は適当に編んで、枝を縫い付け、葉っぱの部分はかぎ針編みで。

梨の実はお得意の Etsyで注文したチェコ製のガラス・ビーズを針金で装着。

葉っぱの数はあとでもう少し増やすかも知れないけれど。


そして最後に編み上げた登場人物は太鼓を叩く "Drummer"。


数え歌の中では12人のドラマーたちが居るはずなんだけど、さすがにこんなのを12個も編む気力はないので省略。

「劇場」に仕立てる為の木の箱も既に用意したし、カーテンに作り上げる為の真っ赤な別珍風の生地も端切れセールの見つけて買っておいた。


クリスマス劇場のプロジェクトとは全く別の企画で。

ボテっとした体型でひょうきんな顔の登場人物たちに愛着が湧いて、だから応用編として独自に人魚として発展させてみた。


青い目をして赤毛の人魚は私の気に入り。

色や表情を変えて幾つか作ってみることにして、2つ目は碧色を基調に濃い目の茶色の髪の人魚。


3つ目は紫色の尾びれにピンク色の髪をした人魚を作成中。

海の底を、編物とかぎ針編みで、それこそ色んな毛糸をあれこれと取り混ぜて使って、海の中の生物を再現したジオラマに仕上げる計画。

夏の作品展コンテストに向けて、色々と作りたいものがあり過ぎて困る。



2016年1月12日火曜日

家のはなし

今日は第二週の火曜日だから、私は久し振りに White Bear Lakeのラグ・フッキングのミーティングに出掛けるつもりだった。

家には車が一台しかないから、私が外出する際には、まず Davidを彼の仕事場まで送るのが手順で、だから割りと早めに家を出るんだけど。

今朝はとても寒くて、気温が氷点下20℃くらいしかなく。

それでも、ガレージが家屋に接続してるし、ガレージのドアはリモコンで自動開閉だし、ガレージにはキッチン脇のドアから直接行けるので、外気に触れることなく車に乗り込めるから、寒さは余り気にならないから助かる。

と、ところが!

今朝はキッチン脇のガレージへのドアが不具合で開かず。

じゃあ、ちょっと寒いけど、玄関から外に出てガレージのドアを開けて車に乗り込めばいいじゃん?とか思ったものの、ガレージドアを開閉するスイッチは2ヶ所、ガレージ内に設置されているし、肝心のリモコンは当然、車の中だし、そして当然、車はガレージの中だし。。。

ってので、途方に暮れて家の管理会社に連絡し、古くなったドアノブを交換してくれる人に速攻で来て貰う事が出来て助かった。

何しろ、この家は "Mid Century Modern"と呼ばれる建築のカテゴリーに入るくらいだから、およそ築70年前後で、だからドアノブも当初からの建具だとすれば、いよいよ古くなって機能しないのも無理はないって話で。

古い家ならではの個性とか雰囲気は魅力なので住むのは楽しいけれど、実際に所有して管理するとなると、かなりの維持費や修繕費が掛かるのは目に見えているので、暮らすのと所有するのとは全く別の事であり、だからある程度の期間限定で借りて暮らすのは本当に気ままで負担も無くてラクだなぁ〜と思う。

どんなに気に入って好きな家でも、買って暮らすには不向きな場合はあるし、それは車とか、極論で結婚する相手とかも同様かと思う。

あと数年はこの家で暮らしたい思いつつ、次回、この土地で家を買う時が来たら、果たして、どんな家を探すことになるんだろう?なんて漠然と考える。

その頃、子供たちが二人とも独立して家を出たとすれば、当然、残るのは Davidと私の二人きりだから、多分もう、そんなに大きな家は必要ないだろうし。

たまたま何の意味もなく、昔、暮らしたオンタリオ州(カナダ)の家を懐かしくグーグル・マップのストリート・ヴューで眺めたら、見覚えのある通りや家の風景に昔の記憶が蘇ったり、家の周りに新しくフェンスが出来ていたりするのを見るのは妙な感じだったり、自分がペンキを塗ったドアの色がそのままだったりするのを確認するのは微妙に嬉しくて、今となっては、まるで関係ないはずの見ず知らずの他人が住む家なのに、自分がそこで時間を刻んだ事実の形跡みたいなものを見つけて、それに安堵するのは不思議な感覚。

偶然 Erikaが「なにしてるの?」とやって来たので、コンピューターの画像を見せて説明しながら、「この家、覚えてる?」とか、そう言う話になり。

ちょっとだけ懐かしい家族の昔話をしたり。

「ついでにケベック州(カナダ)の家も見てみたら」と Erikaに言われて何の気なしに同様のグーグル・マップで懐かしい過去の我が家を訪問してびっくり。

家の庭に「売り家」の看板が立ってた。

私たちが10年近く住んで、内装工事をして、売りに出して、アメリカに引っ越して、売れて、、、から、まだ、ほんの2年くらいなんだけど。

私たちから家を買った人たちに直接会う機会は無かったけれど、10歳以下のお子さんが二人いるフランス語系の若いご夫婦だったと言うことは、私たちの代理で署名に出向いてくれた義理の母から聞いて知っていた。

せっかく購入した持ち家を僅か1〜2年で売りに出すことになった理由が果たして何なのか?私たちには一切、関係のない事だとは勿論、理解しつつも、でもやっぱり何となく気になる。。。

転職とか転勤とか、或は離婚とか、可能性は色々とあるだろうけれど、とにかく北米では本当に頻繁に家を売り買いするんだって現実。

「万が一、Daddyが失業してカナダに引っ越すことになったら、もう一度、あの家を買って住むってのはどう?」とか言う Erika。

オイっ!

縁起でもない冗談は止めて。。。

ってか、もしカナダに再び住むことになったとして、でもケベック州だけは選択肢に無いような気がしてる。

色んな理由で。

たまに遊びに行くのは勿論、楽しいけれど!

でも実際にそこで暮らすのはやっぱり違うから。


そして話題にはまるで関係なく。


意外なところ(世界中からの家具や用品雑貨を扱う『World Market』と言う店)で初めて目にした「チョコバナナ味のグリコ・ポッキー」を思わず買ってしまった。

日本では売れてるのかなー?とか思いながら、未だ試してみてないケド。

割りと日本のものが身近で売られてる現場を見掛けるミネソタと言う興味深い場所。




2016年1月7日木曜日

展覧会と講座の季節

*センターから届いた案内のポストカード*


私が月に2回程度の割合いで、火曜日に足を運んでいる Textile Centerにて、新年早々のほぼ2ヶ月の間で「A Common Thread」と言うタイトルの展示が毎年恒例であるらしく、会員である私も、去年に引き続き2回目の出品をさせて貰ってる。

去年はクリムト風のラグ、今年は金魚鉢の手提げ。

大それた展示発表会ではないけれど、センターを訪れた人たちに観賞して貰えるのは手芸家としての励みにもなり嬉しい。

他に展示されてる作品群は、織物だったりパッチワークのキルトだったり、染色やフックド・ラグ、衣類や帽子、人形など、様々な手法の作品が見られて楽しい。



年が明けたばかりのマーケティングは、フィットネスやエクササイズ、あとは身の回りのオーガナイズみたいで、買物に出掛けると、エクササイズ用のタンクトップやスニーカーや、部屋の模様替えに活躍しそうな商品類が目白押しで、まるでカンケー無い私にとっては、ちょっとゲンナリって感じ。

さすがにハロウィンからクリスマスに掛けての楽しい商品が氾濫するワクワク感は独特で、ちょっと名残惜しくもあり。

まぁ、少しだけ待てば楽しいイースターが再びやって来るけれど。

そして新しい年の始めには、色々と新しい目標を立てて新しい事に挑戦したりする人達も多いから、地元のコミュニティ・センターからのガイドブックが届いて、気軽に申し込んで参加できそうな講座やアクティビティが沢山あって目移りする。

*コミュニティ・センターから色んな講座案内ガイド*


スポーツやフィットネスだけでなく、アート(モザイクや陶芸、石鹸作りから編物などの手芸含む)やダンスや音楽、お料理教室、外国語、ビジネス、テクノロジーなどなど、多岐の分野をカバーしていて感心してしまう。

私は取り敢えず、以前から「あればいいのになぁ〜」と思っていた犬のグルーミング講座を見つけたので、それと、あとは護身術みたいな講座に申し込むかも。

Trixie(うちの犬)をブラッシングしたり、週に一度、爪を切ってはいるものの、実は果たしてどこまで短く切っていいのやら?まるで解らず、切り過ぎて深爪したり、出血したり、痛い思いをさせて恐怖心を持たせるのも嫌だから、いつも遠慮がちに切っていて今一つ自信がないのよね。

先週、Davidが Trixieを検診に連れて行って、健康的な問題は無かったものの、予想していた通り、歯垢が溜まりつつあることを指摘されて、このまま悪化すれば来年は麻酔して歯を綺麗にして貰うことになってしまうとのことで。

犬の歯を綺麗に保つって難しい気がする。

一応、気がついた時には歯磨きするよう心掛けてはいるものの、それだけでは不十分らしく。

ナイロボーンを噛ませたり、歯を綺麗にする効果があると言われるおやつを時々与えたりもしてるんだけど。

なので暫くの間、毎日の歯磨きを継続してみることに決めた。

別名「三日坊主の女王」とか、飽きっぽい自分には自信あるので不安だけど。

自分の子供たちは二人とも、それぞれ虫歯ゼロを目指し、歯列矯正も済ませ、責任を果たしたと思っていたのに、今度はまさか犬の歯磨き担当になるとは。



いずれにしろ、アメリカならではの土地柄なのかどうか、カナダのコミュニティ・センターでは見たことのないような講座もいっぱいあって興味深い。

筆頭は当然ながら、銃の安全使用に関する講習で、狩猟の免許を取得するには必要不可欠な知識や技術が学べるらしい。

あとは肥満傾向の人々が多い背景もありダイエットや栄養学の講座。

異色なのが、スピリチュアルやサイキックの講座。

そして催眠術の講座まであるの!

離婚に関する情報の講座があるのもさすがに納得な気がするし。

そしてトドメの講座がコレ→ "Ghost Hunting 101"

"Learn the basics of ghost hunting!"って!!!

"You will see evidence from actual investigations, discover what equipment works best and learn investigation ethics and proper investigating techniques."

「実際に、調査からの証拠を見たり、調査に最適で有用な道具を知り得たり、倫理的な方法での調査の技術を学びます」って!!!

さすがアメリカ。

まるで映画『Ghostbusters』の世界だわね、、、って感じに妙に納得。

夜間の課外授業として調査に出掛ける実習があるらしいので、ビビりの私はさすがにパスだわぁ〜。

因に、2回のセッションで講習料は39ドル也。

果たしてこれが安いのか高いのか?まるで見当も付かないけれど。

そして一体どんな人々が参加してるのか、それも興味津々だったり。

奥深いアメリカと言う国。





2016年1月4日月曜日

お正月休み明け

早くも、お正月の三箇日があっと言う間に過ぎ。

毎日だらだらと美味しいものをたらふく喰っちゃ寝ーしてたので、ほぼ予想通りに典型的な「正月太り」は避けられるはずもなく、体重計に乗った結果を見て「そりゃそーよねぇ〜」と妙に納得。

中年オバさんならではの開き直りで特にジタバタするでもなく。

ま、時間の経過と共にゆっくり元に戻るハズ、、、とタカをくくってる。


お正月とは言っても日本のようにお節料理を食べるでもなく。

金曜日の夕方に急遽、Erikaの彼が遊びに来ることになって、だったら晩ご飯も一緒に、じゃあ人数が増えたことだし、今週末はどうせ Erikaに選択権(外食かテイクアウト)のある週だからってので、彼女は『Toppers』のピザを選び、電話で注文したのをピックアップして来て5人で食卓を囲んで一緒に食べた。

2016年は、そんな訳で元旦からピザ。。。まぁ、そんなもんです。

食による季節感とか風情とか、まるで無し。

あ! それでも、お正月ならでは、ってので、箏曲の CD掛けました。

究極の「春の海」とか、、、琴に合わせた尺八の音色と共に、これぞ和の音楽であり、ミネソタのこの家が突然、和の空間に変身。

*食べ切れなかった分は翌日のランチに♪*
(北米人は翌日の朝食に
冷たいままのピザを食べるのが好きだったりもするケド)

*初めて試してみたポテトが乗ってる斬新なピザに*
日本ならでは(北米ではあり得ない種類)の
ユニークなトッピングのピザを懐かしく思い出してしまった


明日から Davidと Erikaはそれぞれ仕事と高校で通常のスケジュールに戻るけれど、カレッジ生徒の Kaitoは更に1週間、継続して休みらしく、だから引き続き家にいるみたいでちょっと気が重い。

私はのんびりと満喫してた冬休みの名残りを惜しみつつ、久し振りにロバート・パーマーの音楽を掛けてるんだけど、彼の突然の訃報をニュースで聞いて衝撃を受けたのが、ついこの間のような気がしてたのに、2003年の9月だったそうで、かれこれ10年以上も前だった事実に驚き。

過ぎてしまえば何事も、あたかも幻だったかのよう。

54歳でこの世を去った彼の年齢に、そう遠くない自分を重ねてみると何だか急に死というものが身近に思える。

彼は心臓発作だったけれど、そういった突発的な死の原因だったら、私だって明日、死んでしまう可能性だって十分にあり得る訳だし。

果たして、あと何回くらいお正月を迎えることが出来るんだろう。

夕方、焼いたお餅を磯辺巻きにして「あちちちっ」とか食べながら、喉に詰まらせないよう気を付ける事を、必要以上に意識しながら食べた。

大瀧詠一さんは林檎を喉に詰まらせて、呆気なく亡くなってしまったらしいけれど。

とにかく、過去を悔やんでも取り戻せる訳でも無し、将来に不安を抱いても果たして将来がやって来るかどうか?保証がある訳でも無し、確実なのは今、現在だけ、、、と思って、今、生きてる自分の奇跡を十分に味わって楽しんで生きたいと思う。

そんな新年の抱負、、、かな。





2016年1月1日金曜日

明けました

明けましておめでとうございます〜。 

遠くで花火が上がる音と共に、平和に新しい年を迎えました。

発泡性のあるワインを飲んで寝たので、すっかり朝寝坊しましたが。

昨日、大晦日は午後から Erikaと二人で巻き寿司を作り、それを晩ご飯とし。

それに加えて蕎麦を茹でて一応「年越し蕎麦」の気分で少しだけ食べたり。

何よりも、Erikaと二人で仲良くお喋りしながら大晦日に寿司を巻くのは予想外だっただけに、それがとても印象に残り、母親としての自分にとっては、最高は幸せな気分で一年の終わりを締めくくることが出来たのは嬉しかった。

家族4人、時には喧嘩して大声で叫んだり、冷戦状態だったり、関係がギクシャクしたり、フツーに、完璧ではない生身の人間なので色々とあるけれど(あ、でも Davidだけは例外で、彼は大抵ハッピーで常に中立的)、それでも基本的にはお互いを尊重し合って、いい感じの距離感を保って、健康に平和に共同生活を営めている事に感謝している。

2015年は、アメリカで暮らし始めて2年目で環境や生活にも慣れて余裕が出来た分、とてもリラックスして毎日の暮らしを楽しめた気がする。

仲間や知り合いも増えた分、孤独感みたいなものも感じなかったし。

何処に行って誰と会っても英語が通じる分、第一公用語を仏語とするケベック州で暮らしてた時みたいに目に見えない疎外感に縛られることもなく、自由な解放感いっぱいだったり。

2016年は、だからもうこれ以上に欲張りに望むことも無いんだけど。

私自身は引き続き独自に勉強(主に英語)する時間を維持したり、体を動かす時間も出来るだけ取るようにしたり、あとは芸術的な感性を高める努力とか、創造力や集中力を持続させる努力とかを意識して、だからそれらを一応、目標に。

ブログは引き続き、飽くまでも個人的に自己満足の世界で、日本語で思考して表現する限られた練習の機会として、今現在の能力を維持する目的で。

そして備忘録としての日記風に、取り留めなく思い付いたことなどを写真と共に、プロジェクトの創作過程とか、あれこれ。

まぁそんな感じで気紛れでも続けて行けたらいいかな、なんて思う。

新年第一号の作品は、ゴッホの、個人的に大好きな作品『Starry Night』を自分風にアレンジしたもので、現在、作業中。


手染めされた綺麗な藍色の背景を活かし、ラグ・フッキングの手法を中心にウール素材を刺繍したりの Mixed Mediaで。