昨日、思い掛けず日本の姉から電話があった。
まぁ何とは無しに最近の両親の様子について話したかったらしく、実家で一緒にお正月を過ごした時のエピソードを交えて、どうも最近、記憶が怪しくなってる風の両親の「ボケ具合」がどうだとか、やっぱり80歳も間近に控え「ヨイヨイ度」が加速してるとか。
まぁ今の時点では、そんな老夫婦のあれやこれやの「珍行動」をオモシロ可笑しくゲラゲラと笑って済ませるレベルだからいいんだけど。
でも実際、笑っていられるのも今のうちって感じで。
深刻な両親の「老い」とか「痴呆」とか、或は「死」とか、そう言った現実に直面する時期が近付いてる気配ってのは勿論あって。
海外で暮らしてるって「距離感」ってのを痛感させられる瞬間。
インターネットのお陰で普段は世界を身近に感じて、地球は小さく手の届く身近な距離感になった錯覚?があるんだけど。
ネットの恩恵を受けない老夫婦には無縁の世界観だし。
渇望するのは、メールとか電話での会話なんかじゃなくて、
「美味しいおだんご買って来たから一緒にお茶飲もう」
とか、
「焼きたてのケーキ持って来たから一緒に食べよう」
とか、
そういう何気ない日常的な場面での時間の共有なんだよねぇ。
たまたまErikaがクリスマスにくれたメッセージにしんみり。
一部を抜粋&要約すると
「大きくなるにつれて、心で思ってるのとは裏腹な言葉を口にしてしまう事もあるかと思うけれど、でも、本当は二人(両親)がこれまで私にしてくれた事に感謝してるし、心から二人の事を愛してます。」
って感じで。
なんかそれはまるで、私自身が私の両親に向けての言葉みたいで。
私も、私の両親も古い時代の日本人だから、当然、抱き合ってキスするなんて事は絶対にあり得ないとして、お互い面と向かって「愛してる」なんて言う事も無ければ、改めて感謝の意を現す機会すらも無い現状。
全ては「なんとなく」の曖昧な世界であって、「言わなくても解ってるはず」の文化なのよね。
だからこそ、その一方でDavidが彼の両親と会う度に抱き合ったりキスし合ったり、年がら年中「ありがとう」だの「愛してる」だの惜しげも無く出血大サービスみたいに気軽な言葉に出し合ってる様子は、何だかとっても単純だけど解り易く、精神的にも健全に思える。
だからとっても微笑ましく羨ましく、そして少しだけ嫉妬。
負けずに私も自分の子供たちとはいつも、躊躇うことなく目一杯の愛情をお互いに表現し合ってる感じで、だからもし万が一、例え突然の事故で私がこの世を去るようなことになったとしても、子供たちに対して言い残した言葉は無いって断言できるくらいな感じで。
でももし、今このまま私の両親が他界するような事があれば、私には彼等に「言えなかった言葉」がいっぱい残るんだろうなと思う。
「産んでくれてありがとう」
「苦労して育ててくれてありがとう」
「遠く海外に永住しちゃってごめんね」
色んな言葉が浮かぶけど、でも直接は言えそうにないな。
なんとなく言えそうにない言葉を「伝えられなかった後悔」を引き摺って生きるのって、でもやっぱりそれが日本人だからこその、何て言うか微妙に孤高な文化的生き様だったりするのかも?とも思う自分はやっぱり日本人の魂にしがみついていたい部分があるんだろうな、なんて思ったり複雑。。。