ちょっと昨日の日記の続編。
約束の時間を1時間、間違えた私をレストランで待ってたAnnは、私の携帯の番号を持って無かったので諦めて帰ってしまったんだけど、ウェイターが「ほんの今”すれ違い”って感じなので、未だ遠くに行ってないと思いますよ!」と言うので、慌てて彼女の携帯に電話した。
気を取り直して引き返して来てくれたので、ランチは無事、一緒に食べられました。
レストランは私にとって2度目の『La Bocage』で、マッシュルームのクリームスープと、グリーンアスパラのキッシュと、グリーンサラダ&フレンチフライを美味しく頂きました。
そして、昨日入って来た悲しいニュースの詳細は、、、と言うと。
先週末に読んだニュース記事に関連してるんだけど、うちの島の外れで「身元不明の成人女性が凍死してる状態で発見された」というもので、軽装で彷徨い歩いてる途中に何らかの理由で意識を失い、そのまま亡くなってしまったらしい。
何しろ、先週の外気温は(氷点下)−27℃前後だったし。
無防備に外に居るだけで生死にかかわるって環境の恐ろしさを実感。
とにかく、私の居住区での事故だったので気に掛かってたんだけど、それが、まさか知り合いのお嬢さんだなんて夢にも思わなかった。
そのご家族はアメリカ人で、成人されたお嬢さんがわざわざアメリカからやって来て、ご両親と同居されてるのは(北米の価値観では)ちょっと違和感、、、と言うか、珍しいな、とは思ってたんだけど。
それには理由があって、お嬢さんには精神面での既往歴があって、アメリカで単身暮らすには危険度が高過ぎる(つまり、OD=薬物の過剰摂取とか、自殺とかのリスクを心配)ということで、わざわざカナダまでやって来て両親との同居をしていたらしい。
ちょっとしたパーティとか社交の場で何度か同席したそのお嬢さんは、髪が長く眼鏡を掛けていて、何らかの博士号も取得してるそうで、彼女の母親にとっての自慢の娘であるのは明白で、仲睦まじく一緒にいる姿は何だか仲良しの姉妹みたいにも見えた。
異文化に興味があると言う事で日本にも興味を示し、日本で英語教育に携わった経験のあるDavidとも話が弾んで、かなりの長い時間で会話を楽しんでた姿を思い出す。
年が明けて、私が子供たちを連れて電車で市街に行った際にも、途中の駅で乗り込んで来た元気で幸せそうに見える彼女を見掛けたばかりだった。
一瞬、声を掛けようかとも思ったんだけど、でも何となく躊躇われて声を掛けずに過ごしてしまった。
今、こうして彼女の死を認識する時、あの時、電車の中で見掛けた彼女の活き活きとした姿が明瞭に思い出されて、何とも言えない不思議な気持ちになる。
人間って、あっけなく死んでしまうんだなぁ〜と言う現実。
あとは、人間は誰でも人知れず心の中に闇を抱いてるものなのかも知れない。そんな曖昧な推測。
ひと気の無い極寒の雪原を独りで彷徨いながら、ある意味『無』に近いイメージの真っ白い世界で最後の瞬間に彼女は何を想っていたんだろう?
普段はほとんど無縁にさえ思える『死』というものが、何だか急に近く感じて戸惑っている私。
2 件のコメント:
複雑ですねぇ。特に自分の周辺部にいる方が、
なんらかの事情で、突然亡くなる時って。
その人とのお付き合いが、どのくらいの深さかにもよりますが、「喪失感」・「ご家族の気持ち」・「自分にも何かできなかったか?」・
「死は突然に訪れることもあるのだ」とか・・・。とりとめのない思いがよぎりますよね。
だから、「今、生きてることがある意味奇跡で、この一瞬を大事にしよう。」と心に刻み直す時でもありますよね。
亡くなった方のご冥福を心からお祈りいたします。
まゆみさん♪
ありがとうございます。
こういった事って、実際に体験して見ないと本当の意味での理解を「共有」する事が出来なかったりするかと思うんですが、でも、まゆみさんの場合は近年、身近なお友達を若くして亡くしてらっしゃるだけに、私にとっては、まゆみさんがmixiで書かれてた日記が「予備体験」的な、ちょっとした「クッション」の役目をしてくれたような気もします。
普段から新聞の「お悔やみ」欄に目を通すのが好きだったりしますが、本当に自分がこの世に存在するのは「束の間」のような実感、ありますよね。
悔いの無いよう楽しまなくては!(笑
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