この間、夫婦同伴でのパーティでBonnieと話していたら、そこに彼女のご主人(長身でハンサム!)と、うちのDavidも参加して4人での会話になった。
Anglophone(英語を主に話す)の彼女に相反して、ご主人はもともとFrancophone(仏語を主に話す)で、二人が出逢った頃、英語はまるで話せなかったらしいけど、仕事での7年間のアメリカ西海岸暮らしによって、流暢に英語も話すバイリンガルになったそうな。
「あなた達の場合はどうだったの?」と聞かれ、そう言えば私たちも出逢った頃は、お互いに日本語も英語もまるで片言だったから、時には手振りや身振り、それでもダメなら紙とペンを取り出して、絵を描き合って説明し合ったりして大変だったわ〜とか、笑いながら答えたら、どうやらあちらも身に覚えがあるらしく、お互い共感し合いながら盛り上がった。
ひとしきり笑い合った後にBonnieがふと、
「でも・・・」と切り出し、
「お互いに言葉が不自由だった頃の方が理解が深かったような気がしない?」
と言った。
「純粋でインパクトがあった、、、と言うか」
私は飲んでいたマティーニのグラスの手を止めて、彼女の言葉を注意深く、待ち遠しい気持ちで聞き入った。
「何て言うか、今は会話が流暢になった分、言葉が洗練され過ぎてしまって、言葉を尽くせば尽くす程、本当に伝えたい気持ちから遠退いてしまうような、そんな感じ」
あぁ、本当に!
私は、私とまるで同じことを感じてる人が、こんな思い掛けない身近にいた事実に感動してしまった。
2 件のコメント:
共感の多い、楽しい時間が過ごせて良かった
ですね。‘会話’って、やはり、「そうよね、そうそう!」っていう部分が多いほうが、心が弾みますよね。
日本語同士の我が家も、やっぱり出逢った頃の
方が‘ときめいて’ました。(笑)
今は・・
‘二人の歴史’の中に生きてるって感じかな。
そうとでも言ってないと、‘日本人夫婦’は
やってけないかも~(ん!?我が家だけ??)
まゆみさん
コミュニケーションに於いて、言葉は基本的なツールでしか無いんだなぁと実感しますよね。
日本人夫婦の場合だと、「あ・うん」の呼吸に象徴されるように、シンプルにして深い理解の術があるような気もしますし。(笑
究極の会話力(「あ・うん」)はきっと、夫婦間の歴史の積み重ねなんでしょうね〜♪
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