2016年1月29日金曜日

Starry Night: My Version


ラグ・フッキングには点描画と同様の要素があり、私にとっては油絵を描くのと同じような表現手段だと感じてる。

なので、古くからの伝統的なフォークアートとして北米に根付いている、床に敷く為のラグをフッキングするカテゴリーには収まらないような。

そういう意味では、プリミティブなラグ・フッキングを愛好する人々の会に参加する際、ちょっとした違和感と言うか、なんか浮いてる?ワタシ?みたいに、多少の心地悪さを感じる事があったりするのも事実。

だって他人と同じ事したくないし、型にハマりたくないし。

それでいて平和主義の小心者だったりするから微妙なアンバランスで。

エキセントリックな芸術家みたいな存在感に憧れつつも、どこか謙虚で自分自身を前面に押し出すだけの十分な自信が無い。

かと思えば時には自信満々だったり。

繊細過ぎて、小さな事に傷付いて打ちのめされたり、落ち込んで打ち拉がれてみたり、それまでの全ての自信を失ったり。

この歳になってさえ未だ、自分自身というものを確立してない。

自分はいったい何処を目指して何になりたいと思ってるのか?途方に暮れる。

それでも、この間たまたまテクスタイル・センターでのステファニーさんとの会話で、彼女が彼女の母親について話してくれたんだけど、この周辺では名を馳せた画家だったら彼女が、本格的に絵画の道に進んで有名になって絵が売れるようになったのは、実に彼女が70代に入ってからの事だった、と言うのを聞いて驚いてしまった。

それまでは普通に主婦であり母親業をしてたらしいから、特に絵が売れなくて苦労してた時期が長くあったと言う訳では決してないみたいだし。

何の道でも世界でもそうなのかと思うんだけど、物事が上手く運ぶような時期とか縁とかってのはあるんだろう。

目には見えない力によって運ばれて行くような、全ての条件が奇しくも揃うような、まるで時計仕掛けの細工の歯車とか、銀行の金庫の鍵がピッタリと揃い合ってカチっと開く瞬間みたいな、幸運なタイミング、みたいなものは存在すると思う。

まぁ私自身、明確な目標がある訳ではないけれど、取り敢えず大好きな針仕事に没頭し、継続しながら、いずれ近い将来に何かしら自分で自分自身に納得することが出来るようなカタチとしての結果が欲しいとは思う。

自分がこの世界に生きた証みたいに、何かしら誇れる足跡と言うか。

Crafterで終わることなく、Artistを目指したいとは引き続き意識しながら。

まぁ日本語だと「手芸家」の響きも決して悪くないとは思うけれど。

「芸術家」だと、何だか大層で堅苦しい響き、私的には。

外来語で「アーティスト」なら意味は同じでも軽いノリなのが面白い。

私はカタカナな響きで「アーチスト」を目指すのがいいかな。

ちょっとオツムが軽くてサイケでポップな気がするから。

いずれにしろ、カナダで最後に住んでた家は可愛くて機能的ではあったけれど、とてもこじんまりとしていて空間に限度があったので、私の作業スペースも当然、限られていて。

事務的な作業をする机は、ダイニングルームの隅に置かれ、食事をする場所と兼用って感じで、大きな食卓は作業するのに最適ではあったけれど、使うことが出来るのは食事の合間だけであって、食事の時間にはすっかり綺麗に片付けないとイケナイ。

それを考えると、あれこれと食卓の上に引っ張り出して作業する行為自体が何となく億劫になってしまい、よっぽど気が向かない限りは作業をしない、みたいな。

今、振り返って見ると、ラグ・フッキングを継続してはいたけれど、あの頃、実際にフッキングしていたのは週に一度だけとか、ほんの1時間程度とか、本当に細切れな時間での作業だったから、一つの作品を仕上げるのにも多くの時間を要した。

あの頃と比べて見ると、今は本当に夢のような環境。

全ての材料や道具が常に手の届く場所に出されたまま。

素材や色やデザインに「囲まれてる」って状態は大切だと感じる。

自分が大好きなモノたち(この場合、ウールとか毛糸とか生地やボタンなど)が洪水のように氾濫する "Chaotic/ケオティック"(日本語だと「カオス」)な環境に身を置くことで、絶え間なく触発されて色んなアイデアが湧き出すって感じは、ある意味、ちょっとハイな状態にあるような?

とにかく、とてもいい感じ。






大好きなゴッホの「Starry Night」をウールで表現。


縁取りは着物の帯に使われる素材を端切れで持ってたのを使用。


照明の光によって色合いや質感がかなり違って見える。


大抵いつもフリーハンドで、きちんと下絵を仕上げないので、
最後に背景の下布のスペースが足りなくなってしまった。

なので、幾つかの「星」が収まらず。

ま、そんなもんです。

その辺が私自身の中での「アーティスト」と「アーチスト」との違いで、
私がアーチストである所以、みたいな。




2 件のコメント:

yana さんのコメント...

まゆみさんの才能はアメリカに来て見事に開花した感じですね。
これからはお子さんの手も離れ、ますます進化するものと期待しています。

グランマ・モーゼスもご主人が亡くなって70歳からリュウマチのリハビリに始めた絵が画商の目にとまり、
切手やカードなどで全米でブレイクして大統領にも呼ばれるようになり、亡くなる101歳まで絵書き続けたというのだから、人生何があるかわかりませんね。
私の実家の母もいつも私の子供たちに可愛い絵入りのお手紙を送ってくれて、ちょうどそのころ私がグランマモーゼスの展覧会を見たので本格的に書いて絵本でも作ってみたらと言ったことがあったのですが・・・
学生時代は戦争、実家は自営業で会社が近くだったので昼とお茶の時間には父が帰ってくるという環境だったの
で本格的に絵を描くということはありませんでした。まあのんびりした性格でもありますし・・・・

まゆみさんの素敵な作品たちも、とにかく沢山の方に見ていただくことがいいと思いますよ。

ゴッホの星月夜・・・和名も気にいっています。
MOMAで初めて見た感動は今も忘れません。
キンダーだった娘の心にも響いたみたいで、アメリカの大学に留学していた時、ニューヨークでやっと再会できたと興奮していました。
ゴッホはどれも素晴らしいですが、星月夜は傑作中の傑作だと思います。
美術館で買った傘、骨がだめになっても別の傘の骨に付け替えて(日傘作りで習った手法で)
大事に使っています。

まゆみさんの作品も見事ですね。

Mayumi さんのコメント...

yanaさん♪

ありがとうございます。
たまたま色んな環境とか条件とかタイミングとかが自分の求めていた理想の状況に導かれたような気がしてます。
子供たちの年齢、確かに大きく影響しますよね!(笑

本当に人生は最後の終わりまでがギャンブルであり、勝負って感じですね。
最初から100歳まで元気に生きられる事が解っていれば、準備とか、生き方も変わって来るかも?って気もしますが。
でも70歳って、、、個人差がありそうですよね、健康状態とか。
経済的な要素もあるし、色んな兼ね合いな気がしますね。
多分、世の中には、素晴らしい才能があっても埋もれている人ってのは多いかと思いますし。
専門分野で開花する人は、本当に幸運な人達なんだろうな、と思います。
私自身は、才能があるかどうかはともかく、良い意味での欲が無く、怠惰過ぎるからダメなんだよなぁ〜と自覚してます。
現代は戦争の脅威も無いですし、恵まれた時代背景ではありますよね。
それ自体がとても幸運ですね、昔の人々の人生を考えて比較すると。

「星月夜」確かに良い響きですね。
素晴らしい芸術は、記憶に残りますよね。
素敵なエピソードですね。
私は、オリジナルの作品をまだ観たことがなくて、いずれ機会があるといいなと思ってます。←他力本願的な(笑
ゴッホの紺碧?藍色と黄色との配色が大好きです。
美術館のギフトショップには素敵な商品が揃ってますよね。
高価なものも多いので、購入したら末永く愛用できそうです。
ご自分で修繕できたらより素敵ですね。愛着も更に湧きそうですし。
私もその傘(ゴッホの綺麗な藍色と黄色のプリントで)欲しくなりました。(笑