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2017年6月5日月曜日

編物と授乳と卒業式


昨日は晴天の夏日で、外気温は30℃を越えていたのは確実。

そんな中、私は自分でも「何をやってんだかなぁ〜」と自虐的に心の中でつぶやきながら、ウールの毛糸を相手に編物をしていた。


通称「クレイジー・カーディガン」のジャケットみたいに羽織るカーディガンで、部分毎に編んだピースをパッチワークして行って、腰回りはサーキュラーのスカートみたいに30枚の台形を繋げてるから、これが結構な重さで。

久々に「着るもの」としての大作を編んでる私にとっては、ちょっとした衝撃。

着てしまえば苦にならない重さではあるんだけど。

とにかく暑い真夏日でも家に籠って編物が楽しめる住環境で有り難いわ。

何しろ、最後に住んだカナダの家ではエアコンが無かったから。

代わりにプールはあったけど。

とにかく久し振りに編む大作だし、いつもながら行き当たりばったりなデザインなので、終盤の仕上げに取り掛かっても試行錯誤の連続で。

紆余曲折の後に結局、襟を延長させたフードにしてみる事にした。

ほぼ運命的にたまたま手元にあった毛糸が "NORO"のクレヨン・シリーズで、北米でもかなり人気の高い日本製で野呂英作氏デザイン又は監修の糸っぽい。

素材としての毛糸は色や素材感にも色々あって、自分の好みやプロジェクトとの組み合わせやタイミングには、こんなところにも一期一会的なものを感じる。

夜、静かな作業場で独り編物をしてると、その昔、まだ生まれて間もない Erikaに授乳してたその時の感覚が鮮明に蘇り、まるで関係ない行動に思える二つの体験が私にとっては、実はとても似通っている事を実感する。

ひと目ひと目編んで行く寡黙で孤独な作業である編物は、ある意味、瞑想の時間でもあり独特の幸福感に包まれた満たされた時間ではあるのだけれど、その作業は永遠に続く訳でなく、いずれ完成を迎えてしまうという結末に向かって少しずつ進んで行く訳で。

幸せな作業の渦中にあっても、終了した時の達成感と共に感じるのであろう、空虚感のような寂しさを予感してる。

作業から開放されて自由になってしまうと、次は何をしたらいいの?って感じになす術もなく路頭に迷うような心境、大袈裟に言うと。

呆然としてしまいそうな自分が想像出来る。

Erikaとの蜜月のような幸福な時が終わって離乳した時みたいに。

まぁそんな感覚は全てのプロジェクトに通じてる事かも知れないけれど。

万事に始まりと終わりがあるとすれば、与えられたプロセスを存分に悔いなく楽しむしかないんだろう。



先週の金曜日、Erikaは高校の卒業式を迎えた。


500人前後の同級生たちが一緒に卒業した。

残念なのは、卒業式の前日に同級生の一人:Declan君(通称が "Duck")が高速道路のオートバイ事故で突然、この世を去ってしまった事。

カリスマ的で人気者だった彼の突然の死は Erikaをはじめ、多くの仲間たちにとって余りにも衝撃的であり、黙祷を捧げた卒業の式典は一生、忘れることが無いだろう。



卒業式の後、Davidと私は遅い夕食に通りがかった和食レストランに寄った。

市街のレストランなので普段は縁が無いから初めて入った店。

その名もずばり『桜』。


そして、たまたま「卒業キャップ」に Erikaが施したデコレーションも、意外なことにどことなく和風で、桜を思わせる花の飾りだったと言う偶然。

書かれたのは Erikaが愛読する Sarah Dessenの小説からの "Quote"で、

"The Truth about Forever is that it is happening Right Now"と。

Erikaなりに込めた想いがあるんだろう。



因に、私が食べた「弁当」には沢山の天麩羅、鮭の塩焼き、照り焼きチキンが入り、これにご飯と味噌汁、サラダが付いて20ドル前後だった。



昨日は昨日で、Davidと二人でメキシコ料理店にての晩ご飯。

日本料理の倍くらいの量で半分くらいの値段で、やっぱりメキシコ料理って割安感があってお得感いっぱい、ってのを実感。


2017年6月1日木曜日

花柄プリントとミニ・アート

隔週で参加してるラグ・フッキングのミーティングは、郊外のキルトショップにて、店の奥に設置した大きなテーブルを囲んで楽しいお喋りに花を咲かせながらの作業。

キルトショップなだけに、特別フッキング用のウール素材を置いてると言う訳でもなく、綺麗な色や柄でプリントされたコットン生地が豊富に陳列されてる。

何かしら手仕事の手芸を趣味とする人は割合、幅広い分野での手法を愉しむ人が少なくないから、フッキングをする仲間の中にキルターさんも多いし、キルターさんがキルトショップへ来たついでに私たちのテーブルを覗き込んで、興味深そうにフッキングを見て行く人も多く、稀に私たちの仲間入りすると言う場合もある。

私自身、フッキングを愉しむけれど、真剣なラグフッカーと言う訳ではなく。

実は真剣なラグフッカーさんの中には伝統的な手法やプリミティブなデザインにこだわって、しかもサイズ的にも大きな床敷きのラグを制作する人以外は「正統なラグフッカーとは認めない」って意識があるんじゃないか?と感じさせられるくらいの信念を持っていそうな人もたまに居て、自分とは一線を画す印象を受ける。

まぁ私にとって直接的に付き合いのある仲間は皆、柔軟な思考で視野が広く、何か目新しいアイデアは何でも面白がって受け入れてくれるような人達なので、学ぶところも多く、楽しい交流にはいつも感謝の気持ちでいっぱいなのだけど。

さて、前置きの話が長くなったけれど、件のキルトショップには素敵なコットン生地が豊富に揃っていて、いつもそそられるのではあるけれど、この歳になるとさすがに既にそれなりの「一体いつ使うことが出来るのやら」なキルト生地のコレクションが家にあり、時々、途方に暮れるって繰り返しなので、意識的には、これ以上、増やさないよう心掛けてるつもりではあるので、なかなか買う機会は極力控えられてる傾向にある。

がしかし、、、なのは毎度のことで。

やっぱり何かしら目新しくて綺麗なものには惹かれてしまい。

すっごく綺麗な色彩の花柄の伸縮性のあるコットン生地を2種、購入。


勿論、使う当てが最初にある訳ではない、ってのもいつも通りのパターンで。

それでも、凄く凄く綺麗な素材を眺めていると、それを使いたい欲求がふつふつと湧いて来て、タイミングがいいと速攻で作品になるって事も多く。

今回もそんな例で、額縁に変身〜っ。


伸縮性のある生地なだけに、適度に引っ張りつつ包むのに最適だった。

小さな額に収まったデザインは、スクラップ素材を有効利用したもの。

テキスタイル仲間のクララさんが、彼女がアップリケ作業に使った残りのウール素材スクラップを「あなたなら何かしら面白いものを作るのに使ってくれるでしょ?」ってので、託してくれた。

期待されると俄然やる気が出てしまう質なので、スクラップをスクラップとして、出来るだけ切らずに手を加えないそのままのユニークな形状を配置して絵を作りたい意図で、だから木の枝は特に、一切なにもしないままそのまま縫い付けただけで「木の枝」として場面に収まった。

私にとってのちょっとした "Art Attack"って感じで楽しい挑戦になった。

あとはやっぱり、伸縮性のある綺麗な花柄なので、お人形を作って見たくなり。


あんまり可愛くないお人形も一体作った。

ま、試作、と言うことで。

私の場合は、この「試作」ばかりなんだけど。

いい加減、テキスタイル・センターのコーディネイターであるナンシーさんが勧めてくれるように、ギフトショップで販売する事の出来る作品を幾つか作りたい欲求はあるのだけど、その為の試作をあれやこれや重ねつつ、一作を完成させるとそれで納得+満足してしまい、同じ作業の繰り返しをする気持ちが萎えてしまう。

自分は本当に一発勝負屋なんだなぁ〜、みたいな。

だから結局、クラフトよりもアートの方向性での作品作りをするしかない結論。

あとは「クラスを教える講師」と言うニーズもあるのではあるけれど。

お隣のウィスコンシン州でブティックを経営しつつ、フッキングの素材やウール・アップリケの素材の販売と、小さなグループでのお教室を持ってる女性がいて、以前から私の作品を気に入ってくれてるらしいのだけど、この間、偶然に会って話した際、テキスタイル・センターで私の作品が展示された3回の展覧会も全て見てくれたそうで、感激してしまった。

そして彼女の店で講師として教えるつもりがないか?小さなグループでもだめか?熱心に誘ってくれるので有り難いんだけど、でも私は人にものを教える器じゃない。

自分自身、人から教えて貰うという設定が苦手だし。

だから逆の立場になるなんて更に考え難い。

精神的に弱い部分もあって、過剰に繊細だったりするし、だから他人からの否定的な意見にはもの凄く傷付き易い自分も認識してるし。

想定外の場面ではパニックになり易いのも自覚してる。

あぁ、あとは英語の "V"の発音とか "R"の発音とかが未だに苦手だったりするし。

なので、自分だけの快適空間である殻のような世界に籠って、大好きな仕事場で我を忘れて作業に没頭してる独りの時間に恍惚状態で浸ってるのが私の天国なの、と言う結論で。


小さなサイズの額縁で幾つか作って見た最新の作品群。


5" x 5"

ニードル・フェルティングとフッキング、かぎ針編み、ビーズ刺繍、アップリケ、などなどの手法を取り混ぜた、所謂 "Mixed Media"の Small Canvas Art作品。



8" x 8"

キャンバス地の縁の部分には、何かしらペイントを施して完成させる予定。


2017年5月23日火曜日

夏日と小鳥の巣

特にこれと言った理由もなくブログをさぼり続けてしまった。

色々と書き留めておきたい事はあったのだけど。

引き続きファイバーアートの手作業は楽しくて飽きもせず作品作りに没頭。

インスタグラムに割りと頻繁に写真をアップしてるので、それで自己満足度が満たされ完結してしまう感じで、ブログまで辿り着かないのが原因かも。

そもそもブログを書き続けること自体「なんで?」って気がしないでもないし。

色んな出来事があり過ぎて、色んな想いが交錯し過ぎて、頭の中がいつも混乱してる傾向にあるから、文章にする行為が思考の整理整頓をする手助けになるって利点は大いにあるかと思うけれど。

言葉って本当に難しいと思うし、人との関わりも本当にその時勝負な気がする。

余計なひと言を発してしまったり、逆に言葉が足りなかったり。

一日の終わりに反省する事ばかり。

その日に起こった場面をもう一度やり直す事が出来たら、もっと別の言い方をしたり、足りなかった言葉を補足することが出来るのに、と。

同じ内容を伝えるのに、選ぶ言葉や言い回しで印象がまるで違ったものになるのは、それが日本語であれ英語であれ同じことで。

相手に誤解を与えることなく明瞭で適切な言葉を使い、しかもぶっきらぼうでなく、丁寧でポジティブな表現の言い回しが出来るのが理想で、目指してるところではあるんだけど、でも難しい。

会話は、流れに乗ってその場のタイミングで喋らないといけないし、だからやっぱり頭の回転が速くないと、ってので、普段から頭の訓練をする必要性を感じる。

家に籠って孤独な作業に没頭しつつ脳を刺激する訓練は難しいなぁ〜。

アメリカで就労出来るヴィザを取得したら外に出て働こうかな、なんて。

外部からの刺激が無いと、体も脳も老化するのが恐ろしく速そうで怖いから。

歩道でつまづいて転んでコンクリートの地面に顔で着地して擦りむいた頬の傷が、なかなか元に戻らず、仲間の勧めもあってクリニックに行って来たんだけど、ひょっとしたらアザとして残るかも知れない可能性を示唆され、ちょっとした衝撃だった。

その可能性は考えても見なかったので。

顔に痣って、例え幾つになったとしても、やっぱり(一応)女性としてはショックな事なんだなぁ〜ってのをぼんやりと実感しつつ。

コンシーラーとかファンデーションとかで覆い隠す手立てがあるにはあるけれど、普段、フェイスパウダーしか使わないし、重いメイクは好きじゃないから、何だかとっても不自然な気がして、ありのままの自分を偽るような抵抗感もあり、多分、パス。

そんなあれやこれやをうだうだと考えつつ。

ミネソタの天候も夏日だったり冬に戻ったり、不安定感がハンパなく忙しい。

数週間前の週末は晴れて夏のように暖かで、サンルームのドアを開け放ち網戸にし、冷蔵庫からレモネードを取り出して飲みつつ、久々に夏ならではの味わいが懐かしく爽やかで、大好きな季節の解放感をしみじみ満喫してた。

その延長で、家族揃って近所のアイスクリームショップに出掛けたりもして。

*yelpからの画像*

*yelpからの画像*


近所の人達が徒歩でやって来るような店で、メニューにはハンバーガーやホットドッグなんかもあったりして、食事とデザートが同時に楽しめる。


*yelpからの画像*


ソフトクリームにはもの凄い種類の味が選べて迷ったけれど、取り敢えず私は「アイリッシュ・クリーム味」を試してみた。

安くてそこそこ美味しくて、アメリカならではのカジュアルさと夏ならではの解放感と、ゆったりとのんびりと、この上ない幸福感。

そしてそうそう、家の裏庭側の軒先の去年と同じ場所に再び、小鳥が巣を作り卵を温めている模様。


無事に雛が孵って巣立ってくれるといいな〜と楽しく見守ってるところ。


2016年10月30日日曜日

Hooked+Crocheted Purse: Cat and Mouse

足りなかった黒色で太めの安価な毛糸をAmazonで検索して、『Alpaca Direct』と言う出店者から購入してたのが土曜日、玄関先に届いた。

店頭で買うと一玉が $6.50だったのが、セール価格で6ドル以下だったし、送料も一律 $3.99だったから、取り敢えず5玉買ったのだけど。

ほんの数日待てば、玄関先に配達されるこの便利さと値段の手頃さと快適さを考えると、重たい腰を上げて車を運転して時間を掛けて、わざわざ店頭に出掛けて行くには、それなりの動機となる魅力を要するのは明白。

となると、やっぱり人間ならではの心地良い接客は重要だと思う。

ビジネスはそれ自体が単純ではないと思うのに、店を構えて在庫を抱えてのビジネスは更に並大抵ではない大変さだろうと想像する。

地元で細々と頑張ってるようなビジネスは応援したい気持ちは山々なのだけど、この辺りにあるのは既に大型のチェーン店ばかりだし。



余談で少し前、小さな買物の用事があってフラッと『Williams-Sonoma』に立ち寄ったのだけど、その際にたまたま居合わせた男性の店員さんの接客が酷くて。

まず、商品の質問をした際、笑顔もなくぶっきらぼうな説明、そして会計の為、レジカウンターへ向かったら、こちらをチラチラと見ながらもプライベートらしい会話での長電話を延々と続けていて切る様子も無く。

ようやく電話を切って、私の会計をしてくれるかと思ったら、別の顧客が大型商品の買物をしそうな様子でその接客に行き。

私はかれこれカウンターの前で待たされ続け。。。何だかとっても馬鹿らしくなってしまった。

Williams-Sonoma=「お洒落な高級キッチン用品の店」はこれまで私にとって特別な存在感のある店で、出掛けて行って買物を「愉しむ」種類の店だったから、こんな風に嫌悪感を抱くような経験は初めてで、だから余計に残念な気がした。

こういう経験があると、その日、朝からの晴れやかで楽しい気分も台無し。

たった一人の店員さんが与える影響力は意外と小さくないのよね。

私自身、老人施設内のギフトショップでヴォランティアをしてるけど、接する顧客の一人一人には、彼等が買物をしてもしなくても拘わらず、足を運んでくれたことに対する労いや感謝の気持ちと共に、楽しい気分を体験して貰いたくて、だから常に笑顔で接してるんだけど、これはサービス業の基本かと思う。

とは言え、北米でサービス業を語る際に、日本のそれと比べる事は出来ないけど。

文化的な背景や価値観が違い過ぎるので。

とにかく、この Williams-Sonomaでの体験は、些細なことで無視することも出来たのだろうとは思うんだけど、でも、どうしても気になってしまって、だから取り敢えず、ウェブサイトの顧客サービスの枠に出来事の詳細をコメントしておいた。

それで自己満足というか、自己完結で。

翌朝、Williams-Sonomaの店舗マネージャーから電話があって驚いた。

顧客のコメントなんて、誰も目を通さないんだろうな、くらいに思ってたから。

思い掛けない電話と、低姿勢な謝罪の言葉に全てがチャラになった感じ。



消費者に沢山の選択肢のある時代だからこそ、何処で何をどんな方法でどんな風に買うか?悩みどころ。

インターネットでの買物は勿論、手間要らずで便利なのではあるけれど、それだけでは何とはなしの物足りなさがあるのは解ってる。

綺麗で華やかに飾られた店舗に誘われて、ワクワクするような気分で足を踏み入れる店内では、楽しくて幸せな気分になるような体験をさせて欲しい。



と、話が逸れて、しかも長くなったけれど。

必要だった毛糸が配達されて、、、。

ので、早速、中断していた作業に取り掛かり。

中途だった手提げ鞄が完了〜♪

片側が「黒猫」のデザインで、もう一方が「ネズミ」のデザイン。

*10"x 15" (included/with handles)*



例の(私の中では)「編むだけで Sophie Digard風」な毛糸を部分的に、かぎ針編みしてデザイン周りの縁取りに使って見た。


デザインの部分は Monks Clothに手染めウールを Hookingの手法で。

構造は底の周囲と持ち手の部分を主に針金(16 Gauge)成形。

仕上げは毛糸をかぎ針編みして終了。

あれこれと色んな手法に手を出して楽しんでる自分だからこその作品にしたくて、だから異なる手法を少しずつ組み合わせてみる試み。





2016年10月29日土曜日

魔女のイヤリング

雨が降っている土曜日の午後。

でもそんなに寒くはない。

驚きなのは、10月も末だと言うのに花壇の薔薇がまだ咲こうとしてるってこと。

*今年植えた、その名もずばり「アメリカン」と言う品種の薔薇*



紫陽花も既に活気は無いものの、その花色を保ったまま持ち堪えてるし。





昨日は久し振りにギフトショップ(@老人施設内)のヴォランティアが入ってたので、この間ハロウィン昼食会の際にテキスタイル・センター仲間のクララさんがくれた、「魔女のイヤリング」をして行った♪

*満月みたいな黄色の背景に空を飛ぶ魔女のデザイン
台紙に "Bewitched"と印字されていて、
私は思わずTV番組『奥様は魔女』を連想してしまった
(すっかりその存在を忘れてたんだけど!ハロウィンにも拘わらず)*


スカート+素足にサンダルが定番の夏が終わると、ジーンズばかりの日々になるパターンなんだけど、去年あたりに『Forever 21』で買ったお洒落っぽい黒いパンツを初めて履いて出掛けたら、これがとっても良かった。

その昔、山本燿司氏がデザインする彼のブランド『Y's』(ワイズ)とかで売ってたパンツが、私の体型(オシリが大きくて太腿が太い)でも綺麗に履きこなすことが出来て大好きだったんだけど、それを彷彿する感じのデザイン。

安価なのにも拘わらず、ワイズ風を再現してくれてありがとうっ!

そんな感じの感激。

これで、ブルー・ジーンズ一辺倒の冬場のファッションから逃れられる。うれち♪



そして我が家でのハロウィン昼食会も終了したので、玄関ホールに設置してあった「自家製の魔女」を窓際に移動した。


ハロウィン当日、再び玄関ドアに移動するまでの期間で、家の前を通る人たちを少しでも「ギョッ!」とさせたりとか、魅了してくれることを願いつつ。



自分の中ではフランスのかぎ針編み作家 "Sophie Digard"風と勝手に納得しつつ大満足で編んでいるスカーフの途中から色違いの糸にして見たんだけど、茶色と緑色が入ったそれは予想以上にマスキュランな雰囲気で、ちょっとイメージと合わず取り止め。


当初の「グレーを基調にピンク系」の糸で編み続けることにして完成♪


色んな色のボコボコが、散りばめたビーズみたいな感覚で本当に大好き。

背景のグレーに濃淡があるところも気に入ってる。

気温が下がったら、早速これを首に巻いて出掛けようと思う。楽しみ♪



ヴォランティア先では単独で働くことがほとんどなんだけど、昨日は珍しく私の後を引き継ぐシフトの人がいたので、レジや店を閉める手順がなく楽チンだった。

プリーティさんと言う名のインド系アメリカ人で、彼女とは一度だけ過去に面識があったのだけど、昨日は初めて少しだけお喋りする時間があり、互いの事情や背景を話すうち、話題が趣味に広がり。

近いうち、彼女の仕事(プロのテクニカル・ライターなのだそう)が再び忙しくなる前に、私が彼女に折り紙を教えてあげることになり、彼女が私に不要になったインディアン・シルクのサリを素材としてくれることになった。

新しい縁に導かれそうな可能性にちょっと心が弾む感じの楽しさ。



あとは先週、印象に残った言葉の覚え書きとして。

テキスタイル・センター仲間のサンディさんは、マクラメの巨匠みたいな人で、彼女の素晴らしい作品は、カリフォルニア・サンディエゴの美術館をはじめとして、アメリカ国内の美術館で展示されたり、販売されたりしてるらしいから、多分、その世界に於いて名の知れた、実績のある人なんだろうとは認識してるんだけど。

彼女との会話で、他にも色々と趣味の手仕事なんかをするのか?訪ねたら

「そうね、編物なんかも過去に少しやって、だから編んだりする事は出来るのよ。でもね、あれもこれもに手を出して少しずつやっていたら、どの世界でもプロにはなれないと思って。だから、マクラメを始めた際に、これを、これだけに集中して、この世界を極めようって決めたの。」

と話す彼女、実は臨床の心理学者でありドクターでもあるらしいんだけど。


私なんて、まさにそれ、、、色んな事に少しずつ手を出して片っ端から中途半端に自己満足の範囲で楽しんでる手芸家だから、これだけは誰にも負けない、ってのがある訳でもなく、この道で極めるぞ、みたいな貪欲な将来の目標がある訳でもなく、取り敢えず Etsyにも出店して数えるくらいのアイテムを販売してはみたものの、継続するだけの動機がないからそのまま放置状態みたいな感じだし、、、あぁ〜、なんて駄目なの、あたしってば、とちょっとだけ自己嫌悪に陥ったり。

でも真剣には落ち込まないケド、そんな事では。

それでも、まぁ色々と考えさせられてしまう、人生について。

特にこれから先の、先の見えない将来性について、自分自身の。

まぁ多分、このまま名も無い専業主婦の人生で終わるんだろう、とは思いつつ。

それも何だか詰まらない気がして。

何かしらこの世に残せる証となるような作品を生み出したいような欲求。

さて、それがどんなモノなのか謎、ってこと自体が問題なのだけど。

ふぅ〜。

芸術の秋を迎え、秋の夜長に悶々とミッドライフを悩んでしまうわ〜。



2016年10月5日水曜日

黒猫とラインストーンのブローチ

私は普段、自分専用で使える車も無いし、家の外で仕事を持っている訳でも無いので、週5日のうちの3日間は家に籠り、掃除や洗濯やアイロン掛けといった主婦としての仕事を最低限こなしつつ、それ以外での時間は有り難いことに自分の好きな作業に没頭することが出来るんだけど。

問題は、家に籠っていると当然の事ながら人と接触する機会がなく、自分だけの空間に自分だけの心地良い世界を殻のように築き上げ、そこをコンフォート・ゾーンとして形振り構わず時間も忘れて過ごしてしまうから、ふと我に返って気付いて見ると、何だか自分がまるで世捨て人みたいに世間に対応する術を忘れてしまってるかも?みたいな錯覚と不安に駆られるって事。

大丈夫かな?私???

ちょっと半信半疑に自信の無い感じに久々、「朝の身支度」をしたり、何だかぎこちない感じに洗った髪をまとめて、化粧するのにも妙な違和感があったり。

ま、それと同時に、そんな外出の為の準備は自分にとっての「儀式」のようでもあり、これから外の世界に出掛けて行く為の、目に見えない鎧で覆って、不慣れな外部からの刺激に傷付かないよう自分を守る準備、みたいな。

或は、これから舞台に出る為の「役作り」をする役者のような心境でもあり。

とにかく、エイっと外に出て行って見ると、思い掛けず自然に心地良くありのまま正直な自分を愉しむ事が出来たりするのは、やっぱり理解ある仲間たちのお陰なのかな〜なんて、しみじみと思う。

英語の表現に、「恩恵は、自分が与えた分だけ戻って来る」みたいなのがあるんだけど、今の私はようやく与える術を知り、恩恵を授かってるって感じ。

以前の自分は色んな事に必死過ぎて、周りの人々に何かしら与える余裕が無かったのを痛感するんだけど、50歳を過ぎて、あとはアメリカに引っ越して、それまで張り詰めてた箍が緩んだみたいに一気にラクになった。

「与える」ってのは特に人にモノをあげたりするって意味だけでなく、人に心を開放して受け入れるとか、つまり本来の自分らしい「鎧」を脱いだ状態の自分で接するとか、自分を投げ出す、とか人を手伝ったり、心を掛けたり、言葉を掛けたり、或はただ単純に理由が無くても見知らぬ人でも常に微笑み掛ける、とか。

笑顔のパワーは計り知れないほどに強大。

そして多くの恩恵を授かる。

「恩恵」も単に自分にとって何かしら目に見える利益をもたらすって意味じゃなく。

昨日は特に、苦手だと思ってた人から親切にされたり、仲間から賞賛されたり、初めて出逢った人がとても良い雰囲気の人で気が合ったり、行く先々で通りすがりの見知らぬ人々から温かい眼差しや笑顔や声を掛けて貰ったり、店頭で可愛い植木鉢を見つけたり、Kaitoも Erikaも家で私を手伝ってくれたり、晩ご飯の食卓で家族が揃って食事の後にモンティ・パイソンのジョークで笑い合ったり、地下のカウチにそれぞれの毛布に包まって一緒に下らないコメディの映画を観たり、数え切れないくらい多くの幸せな恩恵に何だか圧倒されてしまった。


そんなエピソードに関連なく、連日何通も入って来る Williams-Sonomaからの広告メールに添付されたサイトを開いて見ると、さすがにハロウィン関連のキッチン用品が沢山あって、されらの多くは高価過ぎるから買おうとも思わないんだけど。

たまたまテディベアの販売で有名なドイツの『Steiff』と提携販売らしい黒猫のぬいぐるみが可愛くて目に留まった。

アンティークやヴィンテージになったものだと、さすがに数百ドルで販売されてるのを色んな場所で見掛けるけれど、新品でもかなり高価なのがセール価格で30%オフになってたので心が揺れたんだけど。

生活に必要な訳ではないアイテムなだけに買うのを躊躇ってた。

*Williams-Sonomaで売ってる Steiff製の黒猫のぬいぐるみ*


そんな矢先、昨日の午後、裏庭で色付いた葉を付けた大きな楓の樹のよじ登りかけてる黒い物体を発見!


何だその黒い物体は!?と思ったら、丸々として毛並みの良い黒猫だった。

しかも(当然だけど)リアル。

黒猫の存在に驚いたのは私だけでなく、傍にいた Trixieが興奮して吠えた。

吠える Trixieの声に反応して、反射的に樹の高い方に逃げ上ってしまった黒猫。


え、あんな高い所まで!?と、びっくりしてしまうくらい上の方まで。


あんな高い場所から果たして自力で下りて来られるのか?心配になった。

時々は、消防署のはしご車が出動して猫を救出するって例もあるらしいから。

Erikaと一緒に黒猫を応援しながら見守ってたんだけど、何とか無事にフェンスの向こう側に下りることが出来て、ほっとした。

ひょっとしてこのイベントは、

「何を迷っている。さっさとあの可愛い(Steiffの)黒猫を買いたまえ」

と言う神様(?)からのお告げかしら。。。?と、相変わらずいつもながら自分に都合の良い解釈をしたのも束の間、サイトを再度、注意深く確認したら、件の黒猫のぬいぐるみは高額にも拘わらず、かなりの小さなサイズであることが判明。

なので、取り敢えず現時点では買わないことにした。


その代わり、、、って訳ではないけれど。

ヴォランティア先の老人施設内ギフトショップにて、何となくヴィンテージ風のラインストーンを散りばめたハロウィンで黒猫のデザインのブローチを購入。

*分かり難いけれど眼の色が緑色をしてるの*


普段あまり猫には縁が無いのではあるけれど、黒猫の存在感には妙に惹かれる。

そしてラインストーンのブローチってのにも弱い。

だからついコレクションが増えてしまうンだけど。

「魔女」のブローチとか。

*"vintage"な商品として Etsyで偶然に見つけた*


黒猫ではないけれど、「ネズミを捕まえた猫」のブローチとか。

*rhinestoneを配した猫のブローチ*


一つだけでなく、襟元の辺りに幾つも飾って出掛けたい気分♪

でもまぁ実際、そんな機会も無い現実だけど。。。






2016年9月25日日曜日

Painting with Yarn: Purple Haze

家の近くで "Meetup"の編物グループ集会があるのを知って、どんなもんだか試しに覗いてみたいような衝動に駆られ、近所のショッピングモールに入っている大型書店(店舗内にスターバックス完備)で夕方7時から夜の10時頃までってことだったので、早めの夕食を済ませて出掛けて見た。

夏場で天気が良ければ歩いて行ける距離なんだけど、夜間で、しかも雷を伴う雨模様だったから車で。

ウェブサイトで見た感じでは、誰でも気軽に参加出来るって感じの会で、メンバー数は結構ありそうでも、実際に出席してるのは3〜5人くらいって印象だった。

だからちょっと静かに珈琲でも飲みながらお喋りしつつ、編物とかかぎ針編みとかの手をせっせと動かすって感じなのかな〜なんて思ったんだけど。

興味津々、その場に行って見ると、何だか思ったよりも大人数で幾つかのテーブルを寄せ集めて、各々が編物をしつつお喋りに花を咲かせ、時折どっと笑い声が響き渡ってる感じに、部外者の私は怖じ気づいてしまった。

友達に連れられて初参加、って訳でもなく、見ず知らずの人達が集まったグループにいきなり単身で参戦するのには割りと勇気が要る。

それで何となく決心が付かないまま、ショッピングモール内の別の店をうろうろと覗いて見たり、遠巻きにグループの様子を(怪しい人みたいに)観察してみたり。

20人弱の老若男女(正確には男性が一人だけ)が、それぞれ色んな色の毛糸を持ち寄って、楽しそうにせっせと編物をしてる図。

やっぱり家に帰ろう、、、とも思ったけど、でもせっかくだから声を掛けてみた。

結果として、毎週水曜の夜に同じ場所で開催されるから誰でも歓迎♪ってのを確認して、感じの良い数人の女性たちと他愛のない話をして帰って来たんだけど。

ヴィッキーさんはかぎ針編みでスカーフを編みながら

「私も最初にこのグループに参加した時、すっごく怖くて勇気が要ったわ」

と言うので親近感を抱いた。

グループの人々は「フレンドリー」ではあるんだけど、でも余り他の人には構わないって感じの雰囲気で、たまたま近くの椅子に座ればお喋りするけど全体での会話をするって訳でもなく、"Show+Tell"をするって雰囲気でもなく、とてもあっさりしてると言うか、好きな時に来て好きな時に帰って行って、、、とそんな感じ。

正直、期待してたのとはちょっと違うかも。

私は「構ってちゃん♪」なんだな〜を再認識したんだけど、初めて参加する会にはもっとアクティブに歓迎して欲しいし、積極的な交流をしたい欲求がある。

そうじゃなければ、家に籠って独りで気ままに編物してた方がラクだし。

他の人達が、わざわざ敢えてその集会に出掛けて編物する目的や動機が不明。

勿論それぞれの理由や状況があるとは思うけれど。

最終的に私が一番会話したのはメーガンさんと言う若い女性で、2週間後、婚約者の待つ英国へ引っ越して行く予定だそう。

彼女は以前、ニュージーランドに暮らした事もあり、その時の逸話が興味深かった。

英語と言う同じ言葉を話す国同士ではあっても、気候風土や文化の違いは大きく、土地に馴染むのに苦労したんだそうで、特に人々の感情表現などの違いは顕著らしく。

私がこの席で感じたのは、異国で暮らした経験のある人には、好奇心旺盛な人が多く、未知のものや新しい人たちに対しても心を開き易い傾向があるかもって事。

集団の人々の中に入って行くと、その傾向を感じる場面は少なくない。

極端な例が、私にとってはやっぱり『Textile Center』でのグループなんだろうな。

国際感覚と言うか、広い視野と言うか、冒険心とか社交性とか。

ニューヨークを例に多民族多文化が入り交じった大都市に暮らした経験のある人が多いテキスタイル・センターのメンバー達は、他の国々に住んだり旅したりの経験も豊富で、だから人間味に溢れてるし、私のこともいい感じに構ってくれる。

まぁ全ての事を一度の参加だけで評価することは出来ないとも思うんだけど。

でも、編物の会はうーん、どうかなぁ〜。

気が向けばまた行って見る可能性はあるかも知れない。

人との出逢いは、自分から外に出掛けて行かないと起こらないから。

あ、余談でギフトショップのヴォランティアでは新しい友達に出逢った。

フランさんと言う知的で小柄な女性で、シニア施設内に在住してるんだけど、ギフトショップでのヴォランティアを週に一度することになったと言うので、ちょっとしたトレーニングを兼ねて、私と一緒に金曜日の午前、働いたんだけど。

遠慮がちに年齢を訊いたら、82歳、、、ってので感心してしまった。

いずれにしろ、私の「お友達」は皆、年季の入った女性たちばかりで素晴らしい。


私の最新作は "Painting with Wool"、又は "Painting with Yarn"で秋の風景。


Title : Purple Haze

*Freeform Crochet on the wire structure.  14" x 14"*


かぎ針編みで描いた絵は 14" x 14"のサイズ。

『Michaels』でクリアランスになってた毛糸が、「羊」を表現するのにピッタリな気がして機会を待ってた。

棒で編んで大きめの羊も作ってみる予定。



2016年9月12日月曜日

プラチナ・パープル

大好きな夏が去ろうとしてる気配が何とも物悲しく切ない気分にさせられる。

今朝は今シーズン初めて、珈琲に代わって紅茶を淹れた。

暑い夏の間はまるで紅茶を飲むって欲求が湧かないから。

暫く使っていなかった電気式のコードレス・ケトルは、内側のステンレスの表面に硬水のカルシウムが、薄い層を成して蓄積してしまってたので、水と酢を半々で入れて放置した後、沸騰させたら綺麗になった。

酢の匂いが残るのは仕方ないとして、何度か水を湧かして漱げば解決。

久し振りに美味しいミルクティを愉しむことが出来た♪


先週末は割りと多くの人々と関わる機会があって色々と考えさせられた。

やっぱり私は本質的に内向的で自閉的な傾向もあるのかな〜なんて。

時々、他人と関わることが精神的な負担になる。

思春期の少女みたいに心が繊細なの?って自虐的に嘲笑しつつも、でも実際、そんな感じに他人の発する言葉の端々に過剰に反応して傷付いてしまったり。

私ってば50を過ぎたオバさんなのに!?と自問自答。

自分なりの解釈では、日本で30年暮らし北米で20年暮らしてるから、北米での自分はまだ20歳そこそこなんだろうなぁ、なんて。

気候風土の違う土地で、現地の言語は土地に根ざした文化や価値観に基づいた交流の道具だから、土地柄の精神面も強く反映していて、北米の英語を話すということは、単に単語を覚えて暗記した台詞を言うのとは全く別のものだと考える。

北米英語を喋る自分には、北米文化と価値観の感覚を身に付ける必要があり、それは新しい自分の誕生でもあったから、そういう意味では二重人格みたいな感覚かも。

だって北米の社会では、日本人の自分ならば絶対に言わないような言葉を口にするし、日本の文化では絶対に取らないような行動もするし、日常茶飯的に、自分の中の「日本人の私」を意図的に無視して封じ込めるような葛藤の場面が多発する。

だから時々、頭が混乱するのよね、きっと。

本当の自分ってのが、実は一体どんなものなのかってことに対して。

私の世代、日本では「皆と同じように」って教育を受けて育ったから。

北米でいきなり「自分らしく」「皆と同じにならないで」と言われて途方に暮れたってのは遠い昔、今もその延長で発展途上な過程なんだろうな、未だに。

高いハードルの一つは、自意識過剰な自分を捨てるってこと。

それは自尊心と並んで現れる二つのハードルかも。

自分の言動に揺るぎない自信を持つって難しい。

周りの人達が自分に対して何を期待し幻滅するのか、好意や敵意を抱くのか、、、ひょっとして、そんなものは最初から全く皆無なのかも知れないのに。

ばっかみたい、、、とここでも自嘲。


金曜日の老人施設内のギフトショップのヴォランティアで、仕事内容は単純に、店の開店と閉店と商品整理や値段付け、レジの管理と接客、な筈なんだけど。

でも最近、これにちょっとした「カウンセリング」も含まれてる気がする。


ギフトショップで買物する顧客は主に老人施設を訪れる人達であって(勿論、施設内で暮らす自立したシニアもいるけれど)、施設にいる身内を訪ねて来る家族。

概ね女性で、年老いた母親を見舞ってやって来る場合が多い。

多くの場合、年老いた母親たちはかなりの高齢で、痴呆の症状を発症してたり。

接客の基本として「こんにちは〜、お元気ですか〜」といつも声を掛けるんだけど、「ありがとう、元気よ。アナタは(元気)?」の後にお天気の話が続いたり、ってのは良くあるパターンで、その延長で庭の草木の成長だとか季節の花の話だったり。

そして時々は、こちらがビックリするくらい、堰を切ったように自分の身の上話をし始める女性も少なくなくて、多分、年老いた両親に対する不安や、ストレスなんかを発散する機会が余り無いんだろうと察するのではあるけれど。

見ず知らずの私、しかも単なるギフトショップの売り子に、「え、そんなプライベートな事まで?」と驚くくらい親密な状況について打ち明けられたり、そして、そんな場合には大抵、涙目だったり涙を流してたりで。

だから私は単純に「うん、うん」と聞いて「そうよ、そうよねー」と相槌を打って、「大変ね〜、偉いわね〜」と労いの言葉を掛けるよう心掛けてるんだけど。

いやーーー、私も素人ながら少し心理学の勉強でも齧ってみようかな、なんて。

と言うのも、相手の痛みを和らげる効果的な「話の聞き方」の技術ってのもあるだろうし、と同時に、哀しい話を沢山聴いた後で、自分が受け入れた分の負のエネルギーに対処する方法を知るってのは必要な気がするから。


なんて思ってた矢先にプロの心理学の医師と出逢う機会に恵まれた。

なんてこったい。

私ってばいつもこんな風にラッキーなのよね。

必要な時に必要なものや人と巡り合うの、不思議と。


Erikaも時々、私と同じギフトショップでヴォランティアをしてるから、同じような場面に出くわして、同様な状況で顧客の世間話に付き合ったりするんだろうけれど。

でも彼女ならきっと、涙を流して話す顧客に対して、そっと肩を抱きしめてあげたりするんだろうな〜、なんて思いながら、私もそうするべきなのかどうか躊躇ってしまう部分があったりするのは、やっぱり自分が100%北米で生まれ育った北米人ではない現実が背景にあるからなのかどうか?単に私が私という人間だからなのかどうか?悶々と考えてしまうのよね、相変わらず無駄に。


そして Erikaはいよいよ17歳で高校3年生の新学年度を始め。

髪の色はプラチナ・パープルになってたり。。。

*自分で髪を切ったり染めたりしてる Erika*


日本で高校3年生だった私は制服を着て学生鞄をぶら下げてスッピンで通学してた。
(髪の脱色もパーマも禁止で制服のスカート丈や鞄の厚さにも規制があった!)

アメリカの高校3年生は大抵、染めた髪にバッチリのメイクでファンキーな洋服を着てカッコいいバックパックを片手に車を運転して通学してる。

時間差もあるにはあるだろうけれど、これだけの社会的文化的背景や価値観や主義のギャップを埋めるのは、到底容易でないことは一目瞭然な気がする。




2016年9月10日土曜日

黒猫のシャドーボックス

Etsyで、手作りのブローチやネックレスを販売しているブルガリア在住の Saffronさんの、細い針金で作られた動物デザインの作品を幾つか持っているものの、ハロウィンの時期に販売されていた黒い猫は何故か買いそびれて後悔の念が残ったまま、再び季節が巡って来たから、ひょっとしてまた登場するかも?なんて期待中♪


彼女の黒猫作品に触発されて、私は別の手法で自分の作品に反映。


ラグ・フッキングの手法でカタチを作り、切り取って、別布にアップリケ。


相変わらず、小さくて、しかも3Dな作品に仕上げるのが私の主流で。

そしてジオラマとかシャドーボックスとかの形状に完成させるべく、今回の小道具には植物を作ったり、小さなネズミを作ったりするのも楽しかった。

IKEAに安価で売られているガラス付きの額縁に奥行きのあるものを選んで買って置いたので、それに合わせてセッティングした。


上部に小さな穴を開けてコウモリを飛ばせたら、いい雰囲気で完成♪

大きさとしては、10インチ角(10" x 10")。


更に次なるハロウィン作品の流れで幾つか布に落書きしてみた。


Trick or Treatの仮装をした子供たちのデザイン。

ウール素材をフッキングして色付けして、切り取って、コラージュにする予定。

気紛れなので、デザインは作業しながら変化するんだけど、いつも。

だから仕上がってみないと、実際どんなカタチに出来上がるか?解らない。

行き当たりばったりと言うか、本当にランダムで。

未完成風な完成だったり、完璧じゃない仕上がりだったり。

自分にとっての完結が完成なわけなんだけど。

興味深いと思ったのは、State Fairの作品展から戻って来た作品たちにコンテストの審査結果と共に審査員のコメントが添付されてたんだけど、それらを読んでいて、主観の違いを埋める不可能を再認識させられた。

私が故意に、デザインとして意図的に放置した未完成な不完全さが審査で減点の対象となっていて、コメントに

「その部分さえ『きちんと』仕上げてあったら満点だったのに残念」

みたいな評価をされていて、

「その部分こそが『(意図する)ポイント』なんですが。。。!?」

って感じな、遣り切れない不完全燃焼と言うか消化不良と言うかな心境で。


自分以外の人から評価されるって難しい。


それでも、自分にとっての完成度を他人の好みや他人の目に映る基準に合わせるつもりは毛頭ないから、結局のところ自己満足の世界を極めるって事なんだろうけど。

自分が好きなものは自分が一番良く解っているし、色調や配色や線や傾きや構図や均衡や全ての詳細に於いて自分なりのこだわりを以て達することの出来る快感も心得ているつもりで、だからそれなりの自信もあったり。

時々は自信過剰だったり。

そして時々は急激に自信を喪失して打ちのめされてどん底気分だったり。

ふぅ〜。

幾つになってもいつまで経っても、色々と浮き沈みが大きいのよね。




2016年5月13日金曜日

おりじなるアクセント

この間、時々利用する高級スーパーマーケット(因みに『Byerlys』)のデリ・カウンターにて、量り売りのハムをスライスして貰ったりの注文をしてたら、偶然隣り合わせた見知らぬ老婦人に予期せず声を掛けられて驚いた。

だって余りにも予想外な彼女の言葉は

「まぁ、何て綺麗なアクセントなんでしょう〜」

だったから。

自分にとって第二母国語である英語だから、流暢とは言え永遠に完璧になる可能性は無いと思ってるんだけど、それでも褒められるのは嬉しい。

それで勿論、立ち話での身の上話的な会話で盛り上がり。


その女性には3人の息子さんと一人の娘さんがいらして、お孫さんも11人いるんだそうで。

娘さんは韓国からの養子縁組の養女とのことだけど、ミネソタ州には韓国から養女として受け入れられて地元の家庭で育てられて、現在30代とか40代とかの年代層での女性たちが沢山いる。


カナダでは、中国から養女として移民した女性を多く見掛けたけれど。

なので義母と私の二人で出掛ける際に私は、自分が「白人家庭に養子縁組された中国からの娘」と勘違いされる事もあるんだろうなぁ〜なんて、いつも漠然と考えてたりしたんだけど。


北米の人々が養子縁組を考える際に、受け入れる子供の人種や国籍にこだわらない姿勢は、そういった習慣の無い日本で育った自分にとっては本当に斬新であり、その意識の柔軟性は本当に素晴らしく、感動さえ覚える。

たまたま Erikaに見せられた You Tubeのヴィデオで、3組のアメリカ人(多分)カップルに養子縁組についてのアンケートをしてるんだけど、とても興味深い。

*色々と考えさせられて興味深い*


そこでも3組のカップルが全員、「国籍や人種の選択」の設問に躊躇うことなく即座に「こだわらない」を選択してるから。

へぇ〜っ!って感じに、私には目から鱗みたいな衝撃。

と同時に感動的でもあり。



とにかく、話はかなり飛んだけど、道ですれ違う見ず知らずの人と笑顔で挨拶したり、お互いの気分が合ったら他愛の無い短いお喋りをしたりするだけで、その日一日が明るいものになる気がする。

顔見知りの人とすれ違った際にも挨拶は勿論、何かしら気軽に相手のことを「褒める」習慣ってのも、いつの間にか身に付いて気に入ってる。


ケベック州では、人とすれ違っても果たして相手が英語人か仏語人か解らず、おまけに、例え相手が英語を話す事が出来る人でも「敢えて仏語でしか喋らない」と制限してる気難しい人だったりする可能性もあるから余計に、気軽な挨拶をすることに抵抗があった。

社会的な規制みたいなものを常に感じて、精神的なストレスがあったり心を開放的にして他人を受け入れるような土壌じゃなかった、と今になって実感する。

そういう意味では、アメリカは自由だし開放的だし本当に快適。


Made in Japanの私はカナダのオンタリオ州に引っ越してカルチャー・ショックの洗礼を受け、ケベック州で仏語を学んで視野を広げ、アメリカで更に新しい自分磨きを継続中〜ってな感じで、いつまで経っても発展途上なんだな、を実感。

何年経ってもどんなに生きてもずっとずっと未完成で未成熟、なのかも。

自分って、、、人間って、、、と考えるとキリがなく深いブラックホールの闇に引き込まれそうになるので、それは避け、取り敢えず熱い珈琲を入れて何かしら甘いものでも食べよう。。。そんな金曜日の幸せな午後。


2016年5月7日土曜日

ポーカーと麻雀と動物の親子

昨日は家で Davidが月に一度開催する "poker night"だった。

早めの夕ご飯を済ませて "poker room"(本来はリビングルームのはずなんだけど!)の準備をして、私はさっさと地下のファミリールームへ逃げ込む。

20人近くやって来る人たちは、単純にポーカーを愉しむのが目的なだけの Davidの仲間だから、私との接点は特に無いし、ホステス役を買って出て敢えて社交する欲求もないから、出来るだけ顔を会わせないよう、子供たちと一緒に(ってか、子供たちの部屋は最初から地下だから彼等はいつも通り過ごしてるんだけど)忍者のように地下に潜って隠れてる。

西に向いて全面に窓のあるポーカールームに20人近くの人達が集まってポーカーをするので、部屋全体が熱気に包まれるってのもあり、特に昨日は気温も上がったこともあり、今シーズン初めて冷房を入れたのはいいとして、地下に隠れてる身の私にとっては寒いことこの上なく。

ホットカーペットを敷いた上のカウチで毛布に包まって本を読んでたけど、冷えるからさっさと1時頃ベッドに行ったけれど、その時点でもまだ5〜6人残って楽しそうな音楽とお喋りとポーカーを楽しんでた。

今朝、起きて来た Davidに訊いたら解散は朝の3時半だったそうな。

うへぇ〜、、、と笑いつつ、私の子供時代の記憶が蘇る。


小さい頃、うちの両親の友達がやって来て時々、麻雀大会が開催されてた。

正確には覚えてないけれど、割りと夜遅くまで多分お酒を飲んだり、煙草を吸ったり、お喋りで盛り上がったりしながらテーブルの上でガチャガチャと麻雀のタイル?をかき回してぶつかり合う音がしてた。

子供だったからゲームには参加出来なかったけれど、合間の「かき回し作業」は楽しそうで、その時だけ両手を伸ばしてガチャガチャするのを楽しんでた。

遠い過去の事なので、これまた定かではないんだけど、両親の麻雀仲間の中に女性同士のカップルがいて、彼女たちと私の母は特に、長い間で親しくしていて私や私の姉も可愛がって貰った記憶があるんだけど、ふと今になって思うと、多分、彼女たちはゲイ、、、この場合はレズビアンだけど、、、のカップルだったんじゃないかなと。

2016年現在、すっかり大人になって中年のオバさんの私にとって、同性愛者だとかトランスジェンダーだとかは新しい事でもなく、取り分け抵抗や偏見も無いつもりだし、仮に自分の子供たちがそうであった場合にも、さほど驚くことはないであろう免疫は十分に持っていると自負する。

けれど、私が幼少の頃、昭和の40年代後半の時代の日本は、果たして同性愛のカップルにとってはどんな時代の環境だったのか?まるで想像もつかない。

なので余計に、多分、閉鎖的で封建的であっただろう時代背景を想像すると、母や母の友人たちに対する関心が深まると共に、彼女たちのファンキーさがカッコ良くも思えて、何とも言い難い、、、良い意味で複雑な気分が込み上げて来る。

いつの時代も誰にとっても母親の存在ってのは大きいンだろうと思いつつ。

そうか、明日は母の日だったな、なんて。


つい最近になって近所の子供のベビーシッターをするようになった Erikaから、彼女が経験している「子守り」の体験談と共に彼女の子供時代の記憶などの話を聞かされ、果たして自分は彼女の母として、どんなインパクトを以て彼女の記憶に残るのかな、なんて漠然と思った。


公開してるブログだから、個人的に深い内容を書くのは自制してるものの、それでも書き始めるとやっぱりつらつらと色んな事を、色々とどうでもいいような事を書いてしまったりする。


なので文章とはまるで関係ないけれど、写真。

玄関ポーチの鉢植え作業を終えた後、家の中にもちょっとした関連の飾り。


例え Davidのポーカー仲間たちが集まるとは言え、やっぱり家に人が来るって言うイベントに違いはなく、数名の女性たちも含む、って部分のインパクトもあり、多少、家の中の掃除とか飾り付けとかに気を配ってみたり。。。ほんの少しだけ。

日本で売られてた小さな動物たちのガーデン・アクセサリーには可愛いものが多く、背中に赤いキノコが乗ったハリネズミ?の親子も、そのシリーズの一つ。

他にもウサギやブタ、ヒツジにリスなどなど、持ってるのを思い出した。

背中に青い鳥が乗ったカバの親子はそれぞれに2つずつ持ってることに気付いたので、ひと組は誰かにプレゼントしようと思い箱に入れて見た。


やだぁー、やっぱり可愛いじゃ〜ん♪っと自画自賛。

さて、果たして誰の手に渡ることになるのか?まだ未定。